ダークペダゴジー ― 教師をむしばむ負の指導法(12)病理的公教育の改善を

東京電機大学助教 山本 宏樹

ダークペダゴジー論を巡っては、「教育の手続きだけを切り取って評価することで教育実践者を萎縮させる」といった危惧を抱かれる読者もいるだろう。生徒にストレスを与える指導を用いることが全般的に困難になり、「うわべだけのホワイトペダゴジー」や「無責任なアンチペダゴジー」がはびこるという危惧である。

だが、注意するべきなのは「教育を巡る手続的倫理の領野を開拓すること」と「手続き至上主義を採ること」は別物だという点である。ダークペダゴジー論は、手続きの正当性を問わないまま「結果良ければ全て良し」的に語られがちな教育実践の倫理を、より多元的かつ精緻に論じるための理論である。この理論は教育の営みが不信の目にさらされた現代こそ求められている。

われわれはダークペダゴジーに安易に居直ったり、教育現場の惨状を知らないまま安易にダークペダゴジーを全否定し、留飲を下げたりしないようにしたい。ジレンマを抱え込んだ現実の教育の中で「よりましな道」を探るため、ダークペダゴジーを冷静に語らなければならない。

教育現場の現実的な困難の中では「ダークペダゴジーを駆逐する」だけでなく、「ダークペダゴジーを飼いならす」発想に一定の必要性を認める意見もあるだろう。例えば、公教育の「追い込み指導」や生徒を褒めるために使用される「うそ」がどこまで許されるのか。それらの判断基準は「教育的裁量」という名のベールに包んであいまいにしておくべきものではない。

ダークペダゴジーを使いたいのであれば、科学的根拠や権利論的論拠から、指導のリスクや個別の指導技術の解禁条件、事故が起こった場合の責任の取り方などをつまびらかにすべきだ。公教育でダークペダゴジーを解禁するための挙証責任は、それを使用する教師側にあるはずである。

そもそも、現在の日本の公教育は、ダークペダゴジーなしで教育を満足に行える環境が整備されていない。その意味では「教育公害」の様相を呈している。これは子供の学習権侵害であると同時に、教師の労働権侵害でもある。

個々の指導の妥当性を巡っては、教師と生徒側のそれぞれに言い分があり、対立することも少なくない。だが、ダークペダゴジー以外に手段が残されていないような病理的な公教育は改善されなければならない。教師、生徒、保護者ら全ての教育関係者は、その一点では立場を超えた連帯ができるはずである。

(おわり)

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