職業としての教員―「教師」というレトリック(6) 実像のない「教師力」

教職員支援機構上席フェロー 百合田  真樹人

2005年10月の中教審答申「新しい時代の義務教育を創造する」では、個々の教員の力量を「教師力」と定義し、その強化によって学校教育全体の信頼性を確保する、教育政策の方向性を示した。

学校教育は、予測困難な将来の社会への対応を求められている。とはいえ教員が、急速な社会変化に適時適切に対応しながら、学校教育の構造的課題にも丁寧に向き合えると考えるのは、およそ現実的ではない。

だからこそ、変化に受動的に対応する「教員」としての在り方ではなく、変化に向き合い、自律的に判断して行動する主体としての「教師」へと、アイデンティティーの変化を求めた。こうした教師力のレトリックは、教育改革の言説を新たなパラダイムに突入させたと言えるだろう。

だが、教師力のレトリックは、学校教育とその制度を巡る複雑で構造的な課題を認識する代わりに、学校教育に関わる全ての問題の原因を、個々の教員の力不足に置き換え、焦点化することにもなった。

1989年から前述の中教審答申の前年までの16年間、読売新聞で「教師力」に言及した記事はトータルでわずか6件しかない。だが、答申が出た05年は1年で183件と急増、翌年も101件の記事が掲載された。07年以降は64件、54件、16件と減少していくが、近年でも10件前後は掲載され続けている。教師力のレトリックが、学校教育の諸問題を語るのに都合の良いツールとして認識されてきたことがうかがえる。

教師力のレトリックを利用した点でいえば、教員養成機関や研究者も例外ではない。実際、教員養成系大学や学部の多くが、教師力の形成や強化をうたったプロジェクト、実践研究を展開してきている。その大半は、力量不足の教員志望者と教員を対象にした教育介入によって、教師力の形成・強化を図るものであり、極めて従来的な教育モデルを踏襲しているにすぎない。

「教師力」は教育政策に始まり、メディアを通じてわれわれにも幅広く浸透した。ただ不思議なことに、教師力が具体的に何を指すかはいまも不明瞭なままだ。強化を求めた前述の答申でも、教師力の構成要素を実証するエビデンスは示されていない。

つまり、教師力とは実像がはっきりしない、あいまいで抽象的、不確かなレトリックなのである。