職業としての教員―「教師」というレトリック(7) レトリックの弊害

教職員支援機構上席フェロー 百合田  真樹人

「教師力」のレトリックは教育政策からメディアまで広く浸透し、学校教育の信頼性は個々の教員の力量にかかっている、という風潮になった。しかし、その教師力を定義し、強化するよう求めた2005年の中教審答申も、教師力を構成する要素が何であるか、実証するエビデンスを示していない。

予測困難で急速に変化する社会に必要な、複雑で多様な能力を教員に示すとき、教師力は極めて有用なレトリックとなる。政策提案などのプロセスで、これからの教師に期待するあいまいで漠然とした力量を暫定的に表すために、教師力というレトリックを道具として使うのは合理的と言える。

だが、具体的な政策を展開するときに、レトリックをそのまま示すのは危険だ。通常は、レトリックが表す対象の中身や構成要素を実証的に示すエビデンスを提示しなければならない。結果的に教員養成機関や教師教育研究の領域においても、あいまいで抽象的なまま多用され、拡散・浸透してしまった点については、猛省しなければならないと考えている。

05年の中教審答申が示した「教師力」は、職業的機能の遂行者である教員集団を対象にした力量形成から、変化する環境や社会状況を自律的に判断して行動する個々の実践主体(教師)の力量強化に、政策パラダイムを変化させた。この点は評価できるが、教師力の実像やその構成要素を実証するエビデンスの調査研究が遅れたことによる弊害は顕著だ。

教師力の形成や強化の方法論、力量の測定方法は、いまだに体系化されていない。その結果、教師力はあいまいで実像のはっきりしない力量を道具として示すレトリックにとどまっている。

さらに問題なのは、教師力のレトリックが「免罪符」の機能を持っていることだ。既存の教員養成機関や教育委員会が養成、採用、研修してきた教員集団は、予測困難な社会に向けた学校教育課題に対応できなかった。教師力のレトリックは、既存の教員養成システムが省みなくてはならない構造的課題を、個々の教育実践者の力量不足の問題にすり替えてしまった。構造的な課題を個別の課題に矮小(わいしょう)化したことによって、教育課題の本質を検討する機会を先延ばしにしたのである。この点は、重大なロスだったと言えるのではないだろうか。