職業としての教員―「教師」というレトリック(8)レトリックの陰で失ったもの

教職員支援機構上席フェロー 百合田  真樹人

教育現場には実に多くのレトリックがある。だが、レトリック自体を忌避の対象にするのは明らかに過ちである。

2005年の中教審答申「新しい時代の義務教育を創造する」が示した教師力のレトリックは、提示のされ方と結果だけをみると、あいまいで抽象的なまま「便利なレトリック」として乱用された側面が際立つ。教師の力量を構成する要素の実証的なエビデンスが何ひとつ示されていないにもかかわらず、あたかも実態があるように認識・活用した経緯については、詳細の十分な検証と猛省が求められる。

レトリックにどのように向き合ってきたかを顧みると、私たちが何に権威を与えてきたのかが垣間見える。実態が不確かなレトリックを、実証された存在のように認識することは、レトリックを提示した存在に権威を与えることに他ならない。教師力のレトリックの例では、中教審がそれを提示した。これは、文科省などの行政機関を権威としてみている証左と考えられる。

教育政策などで任意のレトリックが示されたとき、そのレトリックを支える実証的なエビデンスを求め検証することは、民主的な政策決定と実践のプロセスにおいて不可欠だろう。あいまいさや不確かさを解消する機会とツールは、全ての関係者(ステークホルダー)に開かれてなければならない。

この前提は、特定の機関や存在に権威を与えることを善としない認識が基盤にある。特定の期間や存在ではなく、科学的合理性や対話的合理性を権威とみる在り方は、レトリックの検証とその建設的な活用に不可欠な姿勢と言える。

このような観点でわが国の教育政策を巡る実践と研究の言説を顧みると、それぞれが非常に内政的な文脈にとどまっている。加えて、学校教育制度が抱える権威構造に対して全く無自覚、あるいは有効な批判に至っていない可能性すらある。

教師力のレトリック以前は、「実践的指導力」というレトリックが20~30年の長期にわたって、具体的実像が実証されないままに使われていた。教育政策や実践の現場で飛び交うこれらのレトリックの認識と活用方法の誤りによって、学校教育を巡る諸課題の本質的な調査研究やエビデンス構築の機会が失われた可能性は否定できない。こうした機会の喪失を繰り返さないためにも、教師力のレトリックを改めて丁寧に省察する機会を持つことが、今まさに求められているのではないか。