寺脇研の平成の教育30年史(1)平成の教育改革の起点、臨教審

星槎大学客員教授 寺脇 研

全ては、「臨時教育審議会(臨教審)」から始まった。

1984年2月、当時の中曽根康弘首相は国会の施政方針演説で、政府全体で教育改革に取り組むことを宣言し、首相直属の審議機関として臨教審を設置した。現在の「教育再生実行会議」などのような政府部内の閣議決定に基づくものではなく、設置のための法律を国会で4カ月以上にわたって審議した国家的プロジェクトでもあった。

それまでの十数年の間、教育界は混迷を極めていた。授業時間、教育内容共に史上最高となるまで増えていた「現代化カリキュラム」と呼ばれる小学校71年、中学校72年実施の学習指導要領は、世論から「詰め込み教育」という激しい批判を生んだ。分量をこなすためのせわしない「新幹線授業」は多くの単元を未消化のまま終わらせ、「落ちこぼれ」という流行語まで生んでしまった。

こうした「詰め込み教育」批判にたじろいだ文部省(当時)は、小学校80年、中学校81年実施の学習指導要領で、指導内容を大幅に精選し、思い切った授業時間の削減を行った。明治に学校制度ができて以来、内容、時間を減らしたのは初めてのことだった。

それにもかかわらず、70年代末ごろからは中学校における校内暴力などの「荒れ」が深刻な問題になってくる。私が84年に福岡県教育委員会の義務教育担当課長として文部省から出向したときも、県内のほとんどの中学校が荒れていた。そして、それは福岡県だけに限らず、全国的な傾向だった。

ちょうど昭和の終わり頃は、教育現場が極めて困難な状況にあったのだ。それに対して、残念ながら文部省は有効な対策を講じることができなかったと言わざるを得ない。臨教審は、それを打開するために、首相自らが乗り出す形で設けられた。委員には教育界だけでなく各界の代表が集まり、国民各層の意見を十分に取り入れながら、丸3年にわたる濃密な議論が積み重ねられていった。

その結果は87年に最終答申としてまとまった。①個性重視の原則②生涯学習体系への移行③国際化、情報化など変化への対応――の3本柱で構成された最終答申の内容はそれまでの日本の教育を画期的に転換するだけのインパクトがあり、まさに教育新時代の到来を予感させるものだった。

その新時代、すなわち、平成の教育改革をリードしていくのは、教育の「量」だけではなく「質」という新たな観点を提示したのが、臨教審答申なのである。


【プロフィール】

寺脇研(てらわき・けん) 1952年、福岡市生まれ。75年東京大学法学部を卒業後、文部省(当時)に入省。生涯学習局(当時)の新設、高校の総合学科創設などに携わる。2002年度改訂の学習指導要領でうたわれた「ゆとり教育」を推進する一方、「脱ゆとり教育」を求める批判の矢面に立った。文化庁文化部長などを歴任し06年退官。07年より京都造形大学教授。現在は星槎大学大学院教育学研究科客員教授。著書に「危ない『道徳教科書』」(宝島社)など多数。