寺脇研の平成の教育30年史(5)変わる潮目

星槎大学客員教授 寺脇 研

ところが、小渕恵三首相は教育改革国民会議の第1回会議のわずか6日後に倒れ、そのまま亡くなってしまった。会議を引き継いだ森喜朗首相は持論の教育基本法改正の方に専ら熱心だったし、その次の小泉純一郎首相は教育改革にさほどの関心を持たなかった。

自ら先頭に立って教育改革を実現しようとした小渕首相の急逝は、痛恨の極みである。もしあと何年か小渕政権が続いていたら、日本の教育、日本の社会はもっと素晴らしいものになっていたことだろう。残念でならない。

首相官邸からの応援はなくなったものの、それでも文部省は改革へ国民の理解を得る活動を粘り強く展開していた。中教審会長として1996年の答申をまとめた有馬朗人をはじめ中曽根弘文、大島理森、町村信孝の歴代大臣は全国行脚するなど精力的に動いてくれた。私は教育改革を担当する政策課長として、マスコミに登場するだけでなく、全国各地を飛び回って教育現場や国民への説明に奔走していた。

特に、子供たちのことを最も考えている保護者の団体であるPTAへの説明には力を尽くした。数千人の参加者を集めて毎年夏に行われる日本PTA全国研究大会には、大臣はもちろん、生涯学習局長、初等中等教育局長や各分野の担当課長たちが軒並み出席し、保護者と直接とことん話したのである。

その結果、PTA組織からの賛同を得られたのは大きかった。2000年の山梨大会、01年の秋田大会あたりになると「学習指導要領が変わる02年には文科省とPTAが一丸となって学校、家庭、地域の教育を変えるのだ」との熱気が生まれていた。

01年1月に文部省と科学技術庁が合併して「文部科学省」が誕生した頃から、省内の雰囲気が微妙に変化してくる。1月5日の読売新聞は1面トップで、「ゆとり教育抜本見直し」と大きく報じた。これには全国の教育関係者がまさに「びっくり仰天」した。「ゆとり教育」という新語を造った読売新聞は、小野元之事務次官への取材の結果として「ゆとり教育路線を転換して、基礎学力向上に力点を置くことにした」と断定したのである。

小野次官は「学力低下論も踏まえ基礎学力も重要だ」と述べたにすぎなかったのだが、記者はセンセーショナルに記事化した。初等中等教育局は即日、全国の教育委員会へ向け記事の内容を否定する文書を送り、町村大臣も朝日新聞の取材に従来の方針を堅持すると語った。

それにもかかわらず、この頃から「なんとなく」潮目が変わってくる。