働き方改革を巡る視座『教育学者としての問い』(4)無定量勤務まん延の軌跡

学校の働き方を考える教育学者の会

1971年に成立した給特法は、成立に至るまでいくつかのポイントがあった。

第一は、60年代に頻発した教員の超勤手当の支給を巡る訴訟で、労働側(教員側)の勝訴が続いていた点だ。人事院も63年に「労働基準法にのっとって超勤手当を支給すべき」という見解を示していた。そのため、当時の政府は何らかの対処を迫られていたのである。

第二に、文部省(当時)は当初、超勤手当を支給する方向で動いていた。67年に剱木亨弘文部相は国会でそのような趣旨の発言をしており、予算も準備していた。つまり、この時点では教員への超勤手当は支給される可能性が高かったのである。

第三に、しかし自民党文教部会の意向で、最終的に教職特別手当(教職調整額)の支給をもって労働基準法の縛りを外すという制度案に変更された。教員の実際の超過勤務を反映させない形に改められたのである。

第四に、成立した法案では、教職調整額を月給の4%とした。66年の教員勤務実態調査を基に設定したものだが、これは「値切られた数字」だった。

実際の調査結果は、教員の週平均の超過勤務時間は小学校で2時間半、中学校で3時間56分だった。ところが、ここから自主研究の時間などを差し引き、小学校1時間半、中学校2時間半という数字を作り出したのである(「修正超勤時間数」と呼ばれた)。確保した予算に見合った「4%」という数字に近付けるべく、超過時間を調整したと言ってもいい。

このように、政治の圧力と予算の制約が、労働基準法を無視した給特法といういびつな制度を作ってしまった。

教員の超勤問題を巡る議論が進んでいた68年3月に、文部省初等中等教育局の審議官が当時の法案の解説資料で「『(法案に対して)教師に無定量の労働が強制されるようになると反対しているものがある』けれども、『虚構』であり『天性のウソつきか通常の理解力を欠く人だ』」と書いて物議を醸した。

一方、日教組は給特法が成立した日に「このような無定量勤務の強制が現実のものとなれば教師の生活と健康は、ますます害され、その人権はジュウリンされ、さらには教育活動を低下させ、学校教育そのものに深刻な結果をもたらすことは必定である」という声明を出した。

審議官の罵詈雑言と日教組の危惧のどちらが正しかったかは、その後の教員の無定量勤務のまん延を見れば明らかだ。気の毒なのは現場の教員である。今こそ、ボタンを掛け違えた制度を根本から見直す必要がある。

(広田照幸)

【プロフィール】

ひろた・てるゆき 「学校の働き方を考える教育学者の会」呼び掛け人。日本大学教授、日本教育学会会長。専門は教育社会学。著書に『教育は何をなすべきか――能力・職業・市民』(岩波書店)など多数。