働き方改革を巡る視座『教育学者としての問い』(6)教職「特殊性」論批判

学校の働き方を考える教育学者の会

公立学校の教員について、実質上の「残業代ゼロ」を定めた給特法は、その根拠を教師という職務の「特殊性」に求めている。

この特殊性には、大きく二つの意味がある。一つは「勤務態様」の特殊性だ。教師は校外学習や家庭訪問などで学校外にも出向くために勤務実態の把握が困難であること、また夏休みが存在することなどがその理由とされる。だが今日、教師の勤務態様が、給特法が制定された1971年当時から大きく変化している点を鑑みれば、この特殊性論がもはや成り立たないのは自明である。

もう一つの、そしてより本質的な意味は、子供たちの「人格の完成」を目指す教師の仕事は、他の仕事とは異なる崇高で特殊なものという点である。ここには、戦前に有力だったいわゆる「教師=聖職者論」の名残がうかがわれる。

哲学的な観点からすれば、それはすなわち、法の根拠となる原理を探究する観点でもある。「人格の完成」を目指すことは、人格的に完全無欠な理想的人間を育てるといった「特殊」な聖職者的営為を意味しない。

ルソーやコンドルセといった公教育の祖父や父たちが考えたように、公教育は互いが対等に自由な存在であると承認し合うことを根本ルールにし、近代市民社会で法に続き最も重要な土台として構想されたものである。

すなわち公教育とは、ヘーゲルの言葉を借りれば「自由の相互承認」の原理に基づく市民社会で、各人が自由の相互承認の感度を育むことを土台に、「自由」な市民たるよう、全ての子供たちを育むという本質を持つ(べき)ものなのだ。

したがって、公教育に携わる教師の仕事の本質もまた、子供たちが自由に生きられる力を育むことを通して、市民社会の土台を築くことにある。教師の仕事は、市民社会の「普遍的な利益」(ヘーゲル)を追求する他の一般公務員に比べて、いささかも特殊なわけではなく、むしろ市民社会の土台中の土台を築く仕事と言わねばならないのだ。

以上から、教師を一般公務員とは異なる特殊性を持った仕事とする給特法は、その根拠を土台から失うことになる。一刻も早い改正を求めたい。

※本稿の内容の詳細は、「みらいの教育―学校をブラックからワクワクへ変える」(内田良、苫野一徳著、2018、武久出版刊)を参照してほしい。

(苫野一徳)

【プロフィール】

とまの・いっとく 熊本大学准教授。専門は哲学・教育学。主な著書に『「学校」をつくり直す』(河出書房新社)、『教育の力』(講談社)、『どのような教育が「よい」教育か』(講談社)など。