【校長としての心構え(12)】責任を取ることの大切さ

元東京都立西高等学校長 石井 杉生
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「判断」と一体化して信頼の根幹に

判断と責任は表裏一体

この大切シリーズの第2回で「判断することの大切さ」を書いたが、「判断すること」と「責任を取ること」はいわば表裏一体の関係にあると思う。

都立高校改革とは、判断することと責任を取ることを一致させるための施策と捉えてもよいと思う。

それ以前学校では、判断する者と責任を取る者とが乖離(かいり)していた、というより、責任を取れない者が判断をしていることが多かった。

例えば、職員会議での多数決である。都立高校改革が目指したものに「校長の権限の明確化」が挙げられているが、これも言い方を変えれば、「責任を取る者の明確化」といえよう。

だから、判断することは、責任を取ることの表明でもあるわけで、判断だけして、責任を取らなければ、誰もその判断を信頼しなくなる。

責任を取ることの覚悟

教育行政にいる間、組織の長が責任を取る大切さをいろいろ見てきた。いよいよ校長として赴任するときには、この覚悟を固めておこうと考え、自宅で辞表を書いた。

校長を辞めなければならない事態になった場合には、気持ちが動揺して、落ち着いて辞表も書けないだろうから、日付を入れれば提出できる辞表を作っておいたのである。

校長に赴任する前の15年間は、2年平均で職場が変わったが、一度も辞表を書いておこうという気にはならなかった。

行政の課長級は学校の校長と同等の職位で、私は校長になる前の5年間課長を務めていた。

職位・職責という点では、課長も校長も同じ重さということになるが、行政の課長に赴任した3回とも、辞表を書くなど思いもしなかった。しかし、書いてみると意外と気持ちが落ち着き、この心構えがあれば大丈夫だという気になった。

あの気持ちは今でも面白いと思う。覚悟を決めた人間が一番強いというわけで、もし、校長在任中に外部の方から、学校経営についていろいろなことを言われたとしても、「そこまでの覚悟のない人の意見は参考に聞いておけばよい」という気になるということである。

また、この覚悟は自然と教職員にも伝わっていったのだと思う。いわば「本気度」の伝播(でんぱ)といえよう。

過失責任論の否定

この覚悟の延長には、もう一つ良いことがあった。

責任を取る覚悟ができると、人に押し付けようという気にならなくなる。責任を取る者は一人でよいのだから、それを無駄に増やす必要はない。

これは結果として、「過失責任論の否定」につながった。とかく人は大きな事故に遭遇すると、「誰がミスをしたのか」に関心がいってしまい、そのミスをした人が見つかると、そこで原因の追究が終わったと思ってしまう。これが過失責任論の大きな問題点である。

大切なのは「人は誰でも本来ミスをするものである」という認識に立ち、ミスをしても大きな事故につながらないシステムや仕組みを考える必要があるということである。千人の生徒と70人の教職員がいれば、常に誰かがミスをする。そのときに無意味な犯人探しにエネルギーを注ぐ必要がなくなる。

全くミスの責任を問わないわけにはいかない場合が多いが、たいてい、ミスを犯した人は自分のミスの重みを悟っており、いまさらそのミスに関して説教的な指導を多く重ねてもあまり意味はない。

それよりも、今後ミスを大きな事故につなげないようにするにはどうしたらよいのか、その仕組みを共に考えてもらった方が有益・有効である。

部下も自分の上司が「責任を取る覚悟のある人」であるかどうかはよく見ている。もし責任を取ってくれないと分かれば、その時点でその上司への信頼はなくなるであろう。

このように判断と責任が一体化して信頼の根幹を成しているといえよう。

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