教師集団の学びとリフレクション(3)教師が持つ「ゲシュタルト」

東京学芸大学教職大学院准教授 渡辺 貴裕

どんなリフレクションが必要かという話の前提として、前回、教師は「こうでこうでこうだから……」と合理的な意思決定を繰り返しているというよりも、より直観的に自分にとって「自然」なやり方で行動していると考えられることを述べました。

こうした「自然」な行動を導くような感情や価値観、行動の傾向などが組み合わさった、その人が持つ全体的な体制、構えのことを、オランダの教育学者F・コルトハーヘンは「ゲシュタルト」と呼びました。

ゲシュタルトとはドイツ語で「形態」の意味。部分の総和にとどまらない全体が持つ性質に注目したゲシュタルト心理学から、この用語はとられました。

教師が持つゲシュタルトは、自身が教育を受けたり学んできたりした経験、教え手の立場で指導してきた経験を含めた、これまでの経験の総体からつくられています。

ゲシュタルトは、反射的にパッと判断する授業中に典型的に機能しますが、学習指導案を考えたり、教材を作成したりといった授業の準備段階の行動に関しても、その人なりの癖のような形で機能していると考えられます(何かを見て「これは教材になる!」と思ったり、プリントを作成するときに重要語句を穴埋めにして作ったりなど)。

教師が合理的な意思決定のプロセスを経るというよりも、自身のゲシュタルトによって瞬間的に判断して行動するというのは、必ずしも悪いことではありません。それがあるからこそ、次から次へと対応を迫られるような授業中の場面でも、教師はフリーズすることなく同時にさまざまなことを処理して乗り切っていくことができます。

けれども、これを変えていこうとする際にはやっかいです。ゲシュタルトは半ば自動化された形で働いているため、普段の自分の歩き方の癖を変えていくのが難しいのと同じように、変えるのが難しいのです。誰かに「こうするのがよい」と言われて即座に行動が変わるといった性質のものではありません。

ゲシュタルトを変えていくためには、自分の行動にどんなゲシュタルトが働いているか意識的になること、また、事象に対する別の見え方、意味付けの仕方の存在に気付いていくことが必要になります。

次回は、ゲシュタルト心理学でしばしば言及される多義図形の例を手掛かりに、教師がそうした気付きを得るというのがどういうことか、考えることにします。

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