教師集団の学びとリフレクション(7)学び合いの場としての検討会

東京学芸大学教職大学院准教授 渡辺 貴裕

授業の事後検討会は、本来、行われた授業から最大限学びを引き出せるよう、授業者と参観者が互いにリフレクションを促進し合う場であるはずです。けれども、実際の検討会では、必ずしもそうなっていないものも多いようです。

先日訪れた小学校の事後検討会でのこと。参観者から授業に関してさまざまな指摘が出ます。「途中から子供たちがだれてきていた。ペア活動の時間が長かったのでは?」「子供たちが戸惑っている様子だった。先生がもう少し早い段階で整理してあげてもよいのでは?」。

授業者がそれに答えます。「ペア活動が多いって言われるんですけど、今は○○の段階なので……」「言い訳になるかもしれないんですけど、僕がしたかったのは○○で……」。

よく見かけるようなやりとりです。けれども、こうしたやりとりでは、本連載で扱ってきたような、ハッとする気付きを伴うようなリフレクションはいずれの側にとっても困難でしょう。むしろ、自分の考えに固執する方向に向かっているように思えます。

こうした事態は、個人の性質というより、検討会の構造そのものによって引き起こされると考えられます。授業者と参観者が対立的になる構造があるため、自説の補強および弁明モードでのやりとりになってしまうのです(この検討会では、より直接的に、参観者が「今日の授業では○○を見失っていたので……」と述べたのに対して、授業者が「いや、見失ってはいません」と言い返す場面もありました)。

では、どうすればこうした構造を変えていけるのでしょうか。

まず大前提として参加者の間で共有しておかなければならないのは、授業検討会は、その授業はどう進めるのが「正解」だったのかを決めるための場ではないということです(そもそも「正解」などないはずです)。授業検討会をそのように捉えてしまうと、授業者と参観者の間での(さらには参加者間での)対立を招きます。

そうではなく、授業検討会は、授業にはどのような性質や可能性があるのか、子供たちはどのように学び、またそれをどのように意味付けられるのか、といったことを、授業者が提供してくれた授業を基に学び合う場です。

そこでは、授業者と参観者は、一方が「正解」を持っていてもう一方にそれを教えるといった関係ではなく、共に並び立って探究していく関係になります。授業者は題材の提供者で、それを基に皆で学び合うのです。

もっとも、こうした前提の確認と共有は大切ですが、それだけでは人は容易にいつものパターンに戻ってしまいます。具体的な仕掛けと進め方の手掛かりを次回以降見ていきます。