「先生こそ同調圧力に屈しないで」 岩田健太郎神戸大教授

今年2月、新型コロナウイルスの感染が拡大しつつあったクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」に乗船し、船内のずさんな対応を告発したことで世界的な注目を集めた、神戸大学大学院医学研究科の岩田健太郎教授。感染症専門医である岩田教授は、新著『ぼくが見つけたいじめを克服する方法―日本の空気、体質を変える―』を今年4月に出版した。以前からいじめの問題に強い関心を持ち、5年ほどかけて本書を構想したという。「いじめは子供だけの問題ではない。いじめと全く無関係で生きている人は、今の日本社会にはほとんどいない」――。新型コロナウイルスの感染者などに対するいじめが懸念される今、岩田教授は日本社会にまん延する“空気”を打ち破るべきだと訴える。

「誰かを悪者にして納得する」という空気
――なぜ、いじめに関する本を書かれたのですか。

自らもいじめや同調圧力に立ち向かってきた、感染症専門医の岩田健太郎神戸大教授

子供のころはいじめられっ子で、大人になってからもいじめ問題に興味を持っていました。2011年には大津市中学生いじめ自殺事件が起き、13年にはいじめ防止対策推進法が成立しました。その間、いじめの対策に関するさまざまな本を読みましたが、どうも空回りしている感が否めない。法律が施行されてからも案の定、いじめが減っているようには見えないし、学校がいじめの認知を拒否するケースも相次いでいます。

なぜ、抜本的な対策が取れないのか。子供のいじめだけ取り出して、形式的に対策を採ろうとしてもだめなのです。日本全体で、つまり大人も含めて、「いじめてもかまわない」という空気が普遍的である限りは、未来永劫(えいごう)、同じことの繰り返しです。学校の先生だけの問題ではない。どこかで気付いてメスを入れないといけないと強く感じました。

いじめは日本固有の問題ではなく、海外にも「bullying(いじめ・嫌がらせ)」という言葉があります。ただ、日本は構造的にいじめが起きやすく、克服することが難しいように感じます。人間関係があるところにはいじめの問題が発生する。いじめる人も、いじめられる人も、傍観する人も、いじめと全く無関係で生きている人は、今の日本社会にはほとんどいないと思いますね。

――いじめを生む日本社会の空気とは。

「事実」よりも「納得」が優先されることです。例えば医療事故が起きた時、安全対策の専門家が集まる会議に僕も呼ばれることがあります。この時、最初にするべきことは事実確認です。「いったい何が起きたのか」を徹底的に検証して、「どうしたら回避できたのか、どうすれば改善できるのか」を検討していくというのが本来あるべき姿です。

しかし多くの場合は、「誰をスケープゴートにすればみんなが納得するか」というところから始まります。そうするとだいたい、弱い立場にある研修医や看護師が悪者にされ、「あいつが失敗したから悪いということにして、ここは収めよう」となる。

悪者にされた人も、「私の不注意でこういうことになりました。もう二度と繰り返しません」と始末書を書いて、みんなが矛を収めます。場のざわめきが収まることが最優先とされて、事実確認と未来への改善策という最も重要な問題への対応は、かなり稚拙で弱い。

学校現場でも同じことが見られるのではないでしょうか。いじめの問題が認知されたり自殺が起きたりすると、「どうやってみんなの怒りを収めて納得させるか」という事態の収拾を最優先してしまい、原因の解明は二の次、三の次。場合によっては全く無視されることもある。「場を収める」というのは同調圧力の一つで、これは日本社会のどこにでもある構造です。

誰かを裁く立場になるのは危険
――この空気に、どのように立ち向かうべきでしょうか。

「ファクト(事実)」よりも「フェイク(偽物)」がはびこる、というのは近年の世界的な傾向ですが、「事実なんかどうだってよい」という空気がまん延すると、ものすごく恐ろしいことになります。上の人間に従わないものは排除されて、みんながイエスマンになる、生きづらく、息苦しい社会になります。そのことを自覚し、今の流れをひっくり返す別の空気を作ることが必要です。

それから、こんなことを言うと教育関係者には怒られるかもしれませんが、もう少し人間に無関心になったほうがよいと思いますね。例えば医学部の入試には面接があります。受験生に「どうして医学部を志したのですか」と聞くと、「私、人が好きなんです」と答える高校生が結構たくさんいる。僕は、その場では「ああ、そうですか」としか答えませんが、内心では「危ういな」と直感的に思ってしまいます。

――「人が好き」の何がいけないのですか。

「人が好きだから何とかしてあげたい」という感情を原資にして人助けをするのは、「嫌いになったら助けない」ということの裏返しだからです。ものすごく人道的に見えて、実は裏表の激しい医師は少なくありません。一部の患者さんには神のように慕われるけれど、たばこを吸ったり医師の言うことを聞かなかったりと、自分に同調しない患者さんは平気で切り捨てる。

医療者に求められるのは、人が好きだから助けるのではなくて、「好きか嫌いかを基準にしなくても助ける」ということです。医療者に人間を裁く権利はない。目の前にいる人は等しく助けなくてはならないし、それが仕事です。

けれども、「人が好き」という信念を根拠にヒューマニズムを求める人は、自分が好きか嫌いかで人を裁いてよいという考えを心の奥底に持っている。これはいじめの構造、つまり「この人はいじめられてもよい理由があるから、罰を与える」という考え方と全く同じです。悪意で行われる嫌がらせなどかわいいもので、善意やヒューマニズムに基づいて行われる悪行のほうが、はるかにたちが悪い。

ここでは、もう少し離れて人間を見るというクールな考え方が必要で、「自分は今、好き嫌いで話をしていないか」と自問する必要がある。医療従事者でも、先生でも同じです。

本当に人間に関心を持たなければいけないのは、自分の同胞が石を投げられている場面です。人間のコミュニティーを本当に尊重したいと思っているならば、「私の同胞に石を投げるな」という宣言をきちんと出さなければなりません。

学校でいじめが起こった時、先生が「あれはいじめではない」「ふざけているだけだと思った」と言って逃げ出すのは、一番やってはいけないことです。いざというときに逃げ出すなら、最初からコミュニティーは破綻していると言わざるを得ません。

――それでも、空気を変えていくことは容易ではありません。

僕が今、特に注意しているのは、ソーシャルメディアで誰かがたたかれていたら、自分は絶対にたたかない、必要であれば擁護もするということです。

新型コロナウイルスで自粛を強いられて、みんながヒステリックになり、不倫した芸能人など、多くの人がさまざまな理由で批判されています。「石を投げても許される」と認定された人に対して石を投げる人は多くいますが、「自分だけは石を投げない」と決める。ただ何もしないだけなので、特別な努力も、知性もいりません。

よく「いじめの傍観者は加害者と同じだ」と言われますが、そんなことはありません。止めに入ったら、今度は自分がいじめられるかもしれないのだから、軽々しくできることではないでしょう。だから、内部告発、密告でもいいと思っています。みんながみんな、勇気りんりんでいじめと戦えるわけではありません。

考えることを放棄しない姿勢、子供に見せて
――学校現場では、感染者などに対するいじめが懸念されています。また、県外からの転入者に対して、不適切な登校自粛を求めた教委もありました。

感染者は絶対に守らないといけません。彼らは被害者であり加害者ではないのです。いじめや中傷は醜い行為であるということを、先生は教えなければなりません。ましてや自分たちが、加害者の立場に立つなどということは論外です。

新型コロナウイルスで外出自粛が求められる中、「自粛警察」(編集部注:緊急事態宣言の下で、外出や営業などの自粛要請に応じない個人や店舗に対して、私的な取り締まりを行う一般市民)が登場しました。まさに先ほど述べた、「人に対する関心が高すぎる」例です。

学校で感染者へのいじめが懸念されるならば、先生は「他人が感染したことは、あなたがどうこうすることではない。あなたは裁定者ではないのだから、放っておきなさい」とはっきり言うべきです。

――オンライン授業など先進的な取り組みを進めようとしたものの、横並び意識の強い管理職や同僚の反対に遭い、居心地の悪い思いをした先生もいるようです。

オンライン授業か対面授業かという二者択一にするのではなく、「選択肢が増えたほうがよい」という発想をすればよいのに、と思います。

「学校に来なければ授業が受けられない」というのがそもそもの間違いで、感染が怖い人は学校に来なければよい。逆に家庭のインターネット環境が整っていない人は、学校に来ればよい。そうすれば教室の“密”も避けられて、それぞれ形は違っても、全員がそれなりに得をするわけです。ただ、なかなかそういう考え方にならない。

このことで思い出すのは、2016年の熊本地震での出来事です。感染対策のために避難所の視察に行くと、とにかく人が多すぎる。「このままではインフルエンザやノロウイルスの感染が増えるから、避難所にいる人を減らしてください。ホテルなどに半数を避難させれば、感染リスクが減ります」という話をしたら、「一部の人だけがホテルに行って、あとは避難所に残るのは不公平だ」と反対されました。

一部の人をホテルに避難させれば、ホテルに行く人も、避難所に残る人も感染リスクは減る。全員、得はするわけで、得の仕方が少し違うだけです。ところが、「誰かがホテルに行って得をするくらいなら、全員で損をしたほうがよい」というねじれた論理になる。

こうした同調圧力の構図は、オンライン授業の是非を巡る議論と非常によく似ています。子供や先生、保護者や文科省にとっても、授業ができないよりできたほうがよいということに、疑いを差し挟む余地はありません。

それならばオンライン授業を認めて、オンライン授業がよいという子供はオンラインで、そうでない子供は学校に来ればよいだけ。ものすごくシンプルな議論で、ゆっくり考えればすぐに分かることです。

――教育現場で同調圧力に立ち向かう先生に、メッセージを。

同調圧力に屈することは、思考停止と同じです。「考えるのが面倒、もしくは怖い、だから考えない」という発想で、先生が考えるのをやめてはだめです。考え続けて、勉強し続けなければいけないと子供に示すことが、先生の一番の役割。先生自身が思考停止に陥るなど、ありえないナンセンスです。

人と違うことをしようとすれば、いろいろと面倒なこともあるでしょう。同僚が遅くまで職場に残っている中で、自分だけ「家事や育児があるので、家に帰ります」と言うことは難しいかもしれません。ただ、空気を変えていきたいと願うならば、人と違うことに耐えることが大事です。

それから、人がそういうことを言ったときにも、「俺が学校に残っているのに、どうしてお前は先に帰るんだ」などと言わず、人が自分と違うことを許すことも重要です。

自分が人と違うことに耐える。それから、人が自分と違っていることを許す。これができれば、きっといろいろと変わってくると思いますね。

【プロフィール】

岩田健太郎(いわた・けんたろう) 1971年、島根県生まれ。島根医科大学(現・島根大学医学部)卒業。沖縄県立中部病院、ニューヨーク市セントルークス・ルーズベルト病院、同市ベスイスラエル・メディカルセンター、北京インターナショナルSOSクリニック、亀田総合病院を経て、2008年より神戸大学。神戸大学都市安全研究センター感染症リスクコミュニケーション分野および医学研究科微生物感染症学講座感染治療学分野教授。

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