荒瀬教授と中教審答申を読む(中) 登校しない子供と学校の責任

中央教育審議会(中教審)が答申をまとめる過程では、新型コロナウイルスの感染拡大と学校の一斉休校など、当初は誰も想定できなかった事態が次々と起きた。答申の取りまとめにあたった荒瀬克己・関西国際大学学長補佐・基盤教育機構教授は「そもそも学校教育とは何なのか。教師は何をする仕事なのか。考えたこと、分かったことがいっぱいあった」と指摘。そうした気付きを踏まえ、「学校に来た子供だけでなく、学校に来られない子供たちにも学びを提供するのが、学校教育の責務ではないか」と語る。連載第2回は、コロナ禍という非常事態の下、学校教育とは何かについて、中教審が図らずも問い直すことになった姿を振り返る。

(聞き手・教育新聞編集委員 佐野領)


若き中教審委員の発言に大きな影響力
――全国一斉休校の影響が大きく広がっていた昨年6月、文科省は中教審に検討用資料を提示し、その中で対面指導とオンラインを融合させたハイブリッド型の授業という考え方を明確に打ち出しました。休校が長期化する中でオンラインが注目され、文科省は当時、「学校に登校しなくても、ちゃんと学べるじゃないか」という風潮が広がることを非常に懸念していました。

インタビューに応じる荒瀬克己教授

それは、たしかにそうですね。高校の単位や小中学校の出席日数、履修条件といったところでも、学校に子供たちが来ることを前提に考えるのが学校、また、文科省の仕事でしょうから、そういう対応になったのだと思います。

でも、現に学校に来ることができない子供たち、行きたくない子供たちもいるわけです。

そういった多様な子供たちについてはこれまでも議論してきていますが、今期から委員になられた今村久美さんや神野元基さん、長谷川敦弥さんといった若い方からのご発言に大きな影響力があったように思います。私自身もいろいろと教えていただきました。(編集部注 今村久美さんは認定特定NPOカタリバ代表理事、神野元基さんは株式会社COMPASSファウンダー、長谷川敦弥さんは株式会社LITALICO代表取締役社長。いずれも中教審新しい時代の初等中等教育の在り方特別部会委員)

――これまでの学校教育は、子供たちが学校に登校するのが当然の前提でしたが、実際には学校に来ない子供たちが増えています。でも、文科省も中教審のメンバーも、最初からその現実に向き合って議論したわけではなかったと思います。

必ずしもそうとは言えませんが、現にコロナ禍で長期休校になり、子供たちは学校に来られなかった。その学校に来られない子供たちの学びを止めるわけにはいかない。そうなると、「じゃあ、今まで学校に来られなかった子供たちの学びはどうなるの」という話にも当然なります。

全ての子供たちに学びを提供するのが学校教育の責務
――今回の中教審答申は「一人一人の子供を主語にする学校教育を目指している」と、先にご説明いただきました。子供が主語になればなるほど、「学校に通う意味とは、なんだろう」と、問い直されることになりませんか。

確かにそうですね。ただ、子供たち全体について考えると、やっぱり基本的には、決まった時間に起きて、決まった道を通って、いろいろな人と出会える場所に行くのは大事だと思います。

しかし、それができないとか、それをしたくない、という子供がいる。もちろん、できないとか、したくないの度合いにもよります。「昨日、友達とけんかしたから、今日は行きたくない」という子供がいたら、そういう場合は「そんなこと言ってないで、行きなさいよ」となるでしょう。

でも、非常にひどいいじめに遭っている子供に、「そんなことは言わないで、学校に行けよ」と言うのは酷で、無責任です。病気で学校に行けない子供たちもいます。

子供たちは、大半の場合、決まった時間に起きて、決まった道を通って、決まった学校に行って、友達と一緒に過ごすことに、そんなに負担感は持っていない。けれども、そうではない子供も現にいて、その子供たちも含めた上で、学校教育をどう考えるのか、という問題になる。

そうやって考えていくと、学校教育というのは、学校に来た人にだけ機能するのではなく、学校に来たとしたら受けられるはずの、そういう学びを全ての子供たちに提供するのが責務ではないか。こういう考えに行き着きます。

――コロナ禍の状況から、日本の教育界のリーダーたちが学んだことは、すごく多かったように思えます。

学校教育とは何かという問いが、誰にとっても現実の問題になったのは事実だと思います。「子供たちの学びを止めない」という言葉を聞いて、私がずっと思っていたことがあります。それは「でも、学びが止まっていた子供たちも、昔からいるよね」ということです。それは、学校に来られない子供たちもそうだし、学校に来ていても、そこにいるだけで学習には参加していない子供たちもいたわけです。

だから、本当に止めてはいけない学びは何であるのかを明らかにして、その学びが学校に通ってくる子供たちはもちろんのこと、学校に来られない子供たちにも用意されているという状況を作らないとダメなんだろうと思います。

学校に来られない、来ない子供たちにもちゃんと焦点を当てないといけませんが、同時に、学校に来ているのに、学んでいない子供たちに対して焦点を当てることも大事です。

目標から現状を引けば、課題が分かるというのは、昔から言われていることです。その順番ですが、まずは現状をしっかり見ることから始めなければなりません。現状に応じて目標を設定し、そこに到達するための課題を明らかにして取り組むことが重要です。学校教育の現状はどうか。中教審もそこを見誤らずに、議論していく必要があります。

SDGs(持続可能な開発目標)の「誰一人取り残すことのない」という考え方を踏まえた今回の答申も参考にして、各学校の教育課程について改めて見直していただければと思います。学習指導要領前文の「一人一人の生徒(児童)が」から始まる内容に照らして、教育課程が機能しているかどうか。子供たちが何をどう学んでいるか。

「学校とは何なのか」「教師は何をする仕事なのか」
――もう1回整理させてください。コロナ禍という予想もできない事態が起き、実際に学校にいけない子供が大量に発生した状況によって、中教審の議論はどのような影響を受けたのでしょうか。

まず、子供たちが学校に行くことの意味について、もう一度考えたことですね。例えば、高校WGでは、高等学校とはどういう場であるのか、何を学ぶところなのかといったことを議論しました。岩本悠さんを含めて地域との関わりをおっしゃる委員もおられました。(編集部註 高校WGは中教審新しい時代の高等学校教育の在り方ワーキンググループの略称。岩本悠さんは地域・教育魅力化プラットフォーム代表理事で、高校WG委員)

また、不登校や発達障害の子供たちをたくさん教育してこられた先生もいらっしゃいました。「学校教育とは、どういうことをすることなのか」「教員とは、何をするのが仕事なのか」。そういった議論の中で、教員の役割として「伴走者」という言葉が答申に入りました。

――「伴走者」は、カタリバのキーワードですね。答申では、教師の役割について「子供たちを支える伴走者」「子供たちの主体的な学びを支援する伴走者」といった使い方がされています。

この伴走者という言葉が使い出されことで、「先生はどんなことをするのが仕事なのか」、あるいは「学校とは、何をする場所であるのか」ということが、再確認されていった面があると思います。

答申では、「学校は、学習機会と学力を保障するという役割のみならず、全人的な発達・成長を保障する役割や、人と安全・安心につながることができる居場所・セーフティネットとして身体的、精神的な健康を保障するという福祉的な役割をも担っていることが再認識された」としています。

やっぱり学校は「子供たちが集まって安心できる場所」でなければならない。答申では、それが「福祉的な役割」という言葉で表現されています。もう一つは、安全安心であることを前提として、「これからを生きていくための必要な資質・能力を養う場である」ということです。

コロナ禍と学校の一斉休校で考えたことは、「学校とは何なのか」「教師は何をする仕事なのか」という根本的な問いです。これが影響の一つでしょう。

もう一つは、学ぶ方法は、実は多様にあるということです。ICT活用がまさにそれです。今まで多くの学校、多くの教職員が知らなかった学び方があるということに、気が付けた。

大きな点は、多分この二つじゃないかなと思います。

――この二つは、今後の学校教育にとって、決定的な問いではないでしょうか。

そうです。これらは、教員の働き方改革にもつなげて考えていく必要があります。

「教員がその場にいて、時間と労力をかけなくても、学びは成立するんだ」というのは素晴らしいことです。「じゃあ、教員はいらないのか」というような話じゃない。

教員は何をするのが務めか、学校は何をする場所か。この問いにしっかりと向き合うことが重要です。

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