武田信子氏に聞く 「友達のような教師」にはなれない

 大人の過度な期待や強制で、学習に縛り付けられる子どもたち――。「エデュケーショナル・マルトリートメント(子どもに対する教育上の不適切な対応)」をテーマにした書籍『やりすぎ教育~商品化する子どもたち』が話題を呼んでいる。著者は臨床心理士で、一般社団法人ジェイス代表理事の武田信子氏。教師教育を専門とし、全国の教委や学校、大学の教員養成課程などで、子どもの養育環境の改善を訴えてきた。子どもたちの未来をおもんばかるばかり、かえって彼らを追い詰めてしまうような状況に、学校現場はどう向き合っていくべきなのか、武田氏に聞いた。(全2回の1回目/2回目はこちら


学校の当たり前から離れる
――「エデュケーショナル・マルトリートメント」について、学校現場は何ができるのでしょうか。

 まず、目の前の児童生徒をしっかりと見てください。その子がどうしたいと思っているのか、何を感じているのかに気付くことが、教師に求められています。学校現場を巡っていると、残念ながら、児童生徒の気持ちを想像するエンパシー(共感力)が教師に足りないと感じる場面に遭遇します。

 例えば、授業終了のチャイムが鳴って、すでに児童生徒の意識が休み時間に向かっているにもかかわらず、そのまま授業を続けてしまう先生がいます。その時点で、先生は自分の「今日中にこの単元を終わらせなければ」という責務に縛られ、目の前の子どもの気持ちに気付けていないわけです。

 小学校低学年の児童にとって、椅子に45分間じっと座り続けることが、どれだけ体力と集中力がいるのか想像してみたことがあるでしょうか。海外には20分に1回、目や体の運動を取り入れている学校もあれば、自由に立ち歩いて勉強できる学校もあります。

インタビューに応じる武田氏

 一方で日本の学校では、じっと座っていられるのが当たり前で、できないと「落ち着きのない子」というレッテルが貼られます。しかし、それは正しいのでしょうか。小学校入学前から体幹ができていて体力のある子であれば、しっかりと座っていられるでしょうし、ネットやテレビがなく情報源が学校しかなかった時代は、それが可能だったのかもしれません。

 今の学校の当たり前から、少し離れて子どもたちを観察してみてください。また、彼らが生まれてから小学校入学までにどんな生活をして、どんな人間関係を持ち、どう育ってきたかを想像してみてください。そうした背景を踏まえた上で、子どもに声掛けできることが、教師や学校には求められています。

――そうした指摘の一方で、書籍では特定の誰かが悪いのではなく、学校や家庭、地域など、全ての方向から取り組むべきだと指摘されています。

 教師や保護者だけではなく、私たち社会の構成員全員に責任があると思います。

 学校は、これからの社会を担っていく力を子どもたちに育み、送り出していく場所です。つまり、未来の社会の縮図とも言えます。そこで不登校になったり、自ら命を絶ったりと苦しみもがいている子どもがいる現状があるのは、社会の方向性が間違っているからではないでしょうか。

 私たちは教師や保護者である以前に、社会を担う一人の市民です。一人一人がこの間違いに気付き、自身に染み付いている価値観を変えていくしかすべはありません。

 もちろん、簡単なことではありません。教育は壮大な物語です。人間の命には限りがあり、築き上げてきたものは、その命が失われるとともに止まってしまいます。しかし、その思いや信念、行動は次の世代、その次の世代へと引き継がれ、少しずつでも前進していけると信じています。

 学校現場には、日々の業務に追われ、理想の教育の実現を諦めかけている先生がいるかもしれません。その方々に「諦めないで、もう一回スタートしませんか? あなたのバトンを次の世代に渡してもらえませんか?」と伝えたいです。

 こういう話をすると、多くの先生が「自分は何もできない」と謙遜されます。しかし、何もできない人間なんているはずがありません。例えば、「今日から周りに忖度(そんたく)せず、自分の意見を言おう」という決意だって立派な一歩です。人間はそこに存在している限り、誰かに何かしらの影響を与え、何かができるのです。

「友達のような教師」は存在しない
――教育を再考する上で、必要なのはどんな視点でしょうか。

 みんな児童生徒の「ウェルビーイング」を目指しています。ただ、目指しているウェルビーイングの形は、一人一人違います。ですからその刷り合わせを、時間を掛けて丁寧に行い、合意まで持っていかなければなりません。

 コミュニケーションは、「4つのD」から成り立っているように思います。「ディベート」「ディスカッション」「ダイアログ(対話)」、そして日本語の「ダベる」です。最後の「ダベる」で皆さん、ズッコケるんですが……。

 周りを見ていると、ディベートを対話だと勘違いしている人がとても多いように感じます。とりわけディベートで勝つ自信のある人ほど、「だったら、対話しましょう」と申し出る傾向があります。しかし、そこで展開されるのは、もはや対話ではありません。「対話で相手を納得させるぞ」と思った時点で、それはディベートなのです。

 対話は正解を見つけたり、決めたりするものではありません。相手の感情やプロセスも含めて、できるだけ理解しようと努め、物事を決めていく民主主義の方法です。しかし、今の大人たちは子ども時代にそんな経験をしていません。そのため、対話や民主主義がどんなものかも分からないまま、「対話したつもり」になっているように見えます。

――対話という言葉が、都合よく使われているのかもしれません。

 学校現場では教員が絶対的権力を持っていて、それに児童生徒が従うという、ヒエラルキーの世界が簡単に出来上がります。そのため、教員側がヒエラルキーの存在をまず認識しなければ、児童生徒の権利は成立しません。

 例えば、教員が「世界には飢餓で困っている人がいる。そういう人を思って、今日の給食は全部食べましょう」などと、児童生徒よりもさらに弱い立場の人を例に挙げて指導している場面を目にします。教員自身が権力や自分の権利について無頓着だから、このような指導をするのだなと残念に思います。

 先生たち自身もこれまで、どれほど権利を侵害されてきたのでしょうか。夜遅くまで仕事をしても残業代すら出ず、自分の子どものために有休をとることもためらわれる職場。先生たちの多くはそれが当然だと思い込んでいて、自分の権利が侵害されているとは気付いていません。あるいは心のどこかで気付いていたとしても、見て見ぬ振りをした方が、社会を生きていく上では楽だと考えているのかもしれません。

――書籍の中で、子どもの人権に対する意識が低いことが、エデュケーショナル・マルトリートメントの要因の一つだと指摘されていました。

 子どもの権利を把握する以前に、教員自身が権力者であるという自覚を持っていないことが致命的です。

 新任の先生の中には、「何でも話せる友達のような先生になりたい」と言う人がいます。児童生徒より知識があり、経験があり、教えて評価するという立場にある教員が、子どもと対等な友達のような関係にはなり得ないことに気付けていないのです。

 別に、権力を持っていることがいけないわけではありません。自分の権力を自覚し、それを児童生徒に行使していることをしっかりと理解した上で、「権力を正しく使うためにはどうすればいいのか」と考えていただきたいのです。

30年後、子どもはあなたにどう接するか
――教員自身も常に評価されるプレッシャーの中にいます。
『やりすぎ教育~商品化する子どもたち』(ポプラ社)

 そうですね。今の先生たちは「できない先生になりたくない」という焦りを、とりわけ強く持っているかもしれません。

 教師としてではなく、まず一人の人間に戻って、自分の仕事と向き合っていただきたい。今一度、「教師とは何か」と問い直す時間を持ってみてください。

 「同じ町で一緒に暮らすなら、どんな人がいいかな」と、考えてみるといいかもしれません。シンプルに、ご自身が一緒にいて幸せだと思える人を育てればいいのではないでしょうか。つまり、クラスの児童生徒を一人残らず、同じ街で仲間として生きていけるような状態にするのが、理想の教室のように思うのです。

 自分が70歳や80歳になった30年後や40年後をイメージして、「このクラスの子どもたちは、年をとった私にどのように接してくれるだろうか」と考えてみれば、児童生徒の権利や尊厳を傷つける言動はできないはずです。教師と子どもも、人対人。今は学校の中で権力関係にあったとしても、それがなくなったり、逆転したりしたときでも通用するような接し方が求められています。

(板井海奈)

(「武田信子氏に聞く」2回目はこちら)


【プロフィール】

武田信子(たけだ・のぶこ) 一般社団法人ジェイス代表理事。臨床心理士。教師教育学研究会代表。武蔵大学教授、東京大学非常勤講師、トロント大学・アムステルダム自由大学大学院客員教授、日本教師教育学会理事などを歴任。心理、教育、福祉の観点から、体と心と脳のウェルビーイングな発達を保障する養育環境の実現と、マルトリートメントの予防のために対人援助職の専門性開発に力を注ぐ。『やりすぎ教育』(ポプラ社)、『教員のためのリフレクション・ワークブック』(学事出版、共著)、『教育相談』(学文社、編著)、『教師教育学』(学文社、監訳)など著書多数。

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