学校デモクラシーの危機(後編) 主権者教育と校則問題

 PTAや学校運営協議会への参加を通じて、学校が抱えている問題の根底には「T」(Teacher)があると指摘する政治学者の岡田憲治専修大学教授。インタビューの後半では、社会的にも注目されている校則の見直しなどに着目しながら、学校の中での自治を巡る根本的な課題にスポットを当てる。(全2回の最終回/1回目はこちら

教育を放棄する大人たち

――学校におけるデモクラシーは、教育内容にも関わることだと感じます。

「教師は子どもたちの声を聞いているか?」と問う岡田教授(本人提供)

 僕の子どもが通っている小学校では緊急事態宣言の影響で、6年生が行くはずだった林間学校が延期になってしまいました。7月末には、10月に行われる予定が決まりましたが、それも流動的です。それでも校長は「オリンピックが終わって卒業を迎えるまでの間に、絶対に実施するよ。先生たちを信じて」とメッセージを送ってくれています。そのこと自体はありがたいし、その言葉を信じたい。でも、6年生はもう大人だから、「なんでそんなことが言えるの? 理由は? 根拠は?」と心のどこかで思っているかもしれません。「今までだって、よく分からない理由でいろいろなことが中止になったじゃないか。五輪はやったのに」と。

 そんな子どもの声に、大人がしっかり向き合えていないことに危機感を覚えます。大人が子どもたちに答えられるのは、せいぜい「政府や総理大臣がそう言っているから」といった、何となくふわっとした感じのものしかない。大人がある程度の理屈でこの事態に対応できていないから、子どもたちにもどうして宿泊行事を延期にするのか説明できない。これはある意味、学校が教育を放棄していることになるんじゃないでしょうか。大人から「そんな感じでいいんだぁ」というメッセージを受け取ってきた子どもたちが、やがて親になる20年後、30年後の社会に、暗黒が訪れるような気がしてなりません。

 林間学校が延期となったころ、それを子どもに考えさせる契機として、PTAが主催する「子ども国会」を開こうかという意見も出ました。「この指止まれ」と他校にも参加を呼び掛け、やりたい人や意見を言いたい子どもたちを集めようかと。一番大事なのは、自分たちで決めること、そしてその様子を子どもたちに示すことです。本当の教育とは、大人が格闘し、悩み、みんなで力を合わせるために何をしなければいけないかを真剣に議論し、その姿を子どもたちに見せることです。それを言語化するのが本当のエデュケーションです。議論し、言葉にし、決める。そして、その結果として起こったことを、腹をくくって受け止める。これは自治の原則ですよね。だからPTAは大人の自治のトレーニングの場なのです。

 大切なのは自分の頭で考えること。でも、この150年間、日本の学校は自分の頭で考える人間をあまり育ててきませんでした。だからこそ、学校という場で、目の前で起きていることを題材に、大人が子どもたちと一緒に考える。それを喚起するのが、PTAのもう一つの役割なんじゃないかと、政治学者として思います。

教師は目の前の子どもの声を聞いているか?

――大人が子どもたちと真摯(しんし)に向き合う。それは、最近問題となっている校則の見直しにも共通すると思います。

 日本の場合、校則を原理的な問題として捉えていないですよね。どんな服を着たいか、どんな髪形にしたいかを制限するような校則は、人権を侵しているので憲法違反です。国際社会の基準では人権の問題なのです。「私は髪を茶色く染めたい」という主体的な意思を持った子どもに対して、もし「この学校にいる間は、染髪は禁止というルールに従いなさい」と言うなら、その理由について徹底的な説明が必要です。

 それと同時に、ルールを運用するのはここにいるコミュニティーの人々であるということも教えなければいけません。「ルール上はこう書いてあるけど、実際に私たちが置かれている現状はこういう条件の下にある。その条件で、このルールはどのように運用すべきか」ということを徹底的に議論するのです。

 校則の問題に関しては、原理的に考えられる教師の存在がまずあって、さらにどんなに拙い言葉であったとしても、子どもの声を聞かないといけないということがあります。

 校内暴力が社会問題となっていた時代、子どもたちが髪の色を染める行為は「俺たちは寂しい」という「承認欲求」のメッセージが多かった。でも今は、髪を染める行為が「寂しい」とは違うメッセージである可能性もあります。「21世紀の中学生や高校生が何を考え、どんなことに苦しんでいるのか、先生は聞いていますか?」と問いたい。「子どもは未成熟な存在だから、ルールや規律が必要」だとか、そういう定番の根拠ではなく、目の前にいる子どもとちゃんと向き合っているのかということです。

校則は教員自身の教育の問題

――校則について議論することは、生徒にとって身近な主権者教育になると思います。教員はどう向き合うべきでしょうか。

 2016年に選挙権年齢が18歳に引き下げられたとき、私のところに直接間接、高校の先生から問い合わせがありました。「主権者教育というけれど、何をしたらいいのか分からない」と言うんです。そんな状態で、校則に従わないといけない理由を子どもたちに説明できるわけがありません。校則の問題はまさに「主権とは何か」という話で、それを子どもたちに理解させ、実践できるようにすることが主権者教育なんです。

 そもそも教員は、自分たちを縛っているルールがどういう手続きで決められ、どこに権限があり、それが暴走したときにはどういう手続きでけん制できるのかを職業的に血肉化させて生きていません。例えば「職員会議は意思決定機関ではない」という原則が一般化してしまっています。百歩譲ってそうだとして、ではなぜ意見を言ってはいけないことになっているのか。本来なら、子どもと一番よく接している人間が集まる場こそ、有益な情報共有の場であるはずです。そういう声を包み隠さず全てまな板の上に載せられるよう、条件を整えなければいけません。

 しかし、現実の職員会議は何か意見を言えるような場にはなってはいません。こういう歪み淀んだ状態が放置されたままで、校則の問題を解決できるはずがありませんよ。教員自身が、なぜ自由にものを言えないのかを自分自身の言葉で説明できないわけですから。結局、校則の問題というのは、「教員自身」の教育の問題なんです。

 以前、国が作成した主権者教育の副教材に目を通したことがあるのですが、投票所の図が書いてあって、ここに立会人がいて、投票箱があって、比例投票の場合はこうします……といった具合に、投票の手順しか書かれていませんでした。こんな教材では、教室のロッカーにしまわれたまま、二度と読まれることはないのは誰が見ても明らかです。

 僕は決して突拍子のないことを言っているわけではありません。僕たち自身を拘束するルールは、どうやってつくり、誰の責任で実行するのか。そして、そのメンバーは誰が選ぶのか。人に言うことを聞かせるルールをつくるわけだから、正当に手続きされたものでなければいけないのは当然です。そういう基本原則を一切教えられることがないまま、日本人は大人になっている。そこが問題なんです。

 日本ではやたらと、教育現場に政治的中立性を求めますが、そんなの無理ですよ。みんなそこそこ偏っていて、世界の切り取り方だって少しずつ違う。大切なのは、そういう状況がある中で共有利益をどう発見しながら守っていくかなのです。そのための話し合いを丁寧にやっていくことこそが成熟したデモクラシーであり、自治なんです。教員がそれをできなくて、子どもに何を教えるのですか?

 一方で合意形成は基本的に失敗するものだという事実も知っておかないといけない。でも、自分の思った通りの決定にはならなくても、「自分の意見を聞いてくれた」「もし、条件が変わったら自分の意見も採り入れられるかもしれない」など、そういう手応えがあれば、人はまたその問題について考え続けようとします。その結果、コミュニティーに対する正しい意味でのロイヤルティーが育つことになります。

 僕たちは判断を間違える可能性がある。だから、繰り返し議論しながら、少しでもベターなものをつくるしかない。政治的な決定は、その連続に過ぎません。その自覚と覚悟を持つ人間を、私たちは主権者と呼ぶのかもしれません。でも、主権者は決して崇高なものではなく、政治は私たちの身近なところでも当たり前に行われていることなのです。

(藤井孝良)

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