ある小学校教員の問題提起 埼玉超勤訴訟が示した意義


 「教員には残業は命じられないはずなのに、なぜ残業が存在しているのか」。埼玉県内の公立小学校に勤務する教員の田中まさおさん(仮名)が、埼玉県を相手に約242万円の残業代の支払いを訴えていた裁判が10月1日、さいたま地裁で判決を迎えた。これまで、教員の労働環境を巡り「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」(給特法)違反を訴えてきた裁判では、教員側の主張は退けられ続けてきた。今回の裁判はこうした給特法と教員の働き方を巡る議論にどんな一石を投じたのか。

教員の時間外労働は自発的行為

 公立学校の教員に適用される給特法では①生徒の実習②学校行事③職員会議④非常災害など――のいわゆる「超勤4項目」を除き、通常業務では時間外労働をさせることができないとされ、時間外勤務や休日勤務の手当を支払わない代わりに給与月額の4%に相当する教職調整額を支給することが定められている。この教職調整額の割合は、法律の制定時に1966年当時の公立学校の教員の勤務実態を踏まえて設定されたものだったが、その後、さまざまな要因から教員の労働時間は増加の一途をたどり、それにもかかわらず給特法によって残業代が支払われない構造が続いてきた。

 これまで文科省は、超勤4項目以外で教員が時間外に行っていることは「自発的行為」であると解釈してきた。また、過去に教員の時間外労働の違法性が問われた裁判では、時間外労働が教員の自由意思を極めて強く拘束するような形態でなされ、しかもそれが常態化している場合や、校長によって強制的に特定の業務を命じられたことが明確な場合でなければ、時間外労働やそれに見合う残業代の支給は認められないとされ、原告の教員側が敗訴してきた歴史がある。

労基法32条違反を初めて問う

 しかし、今回の裁判では「そもそも教員が時間外に校内で長時間勤務を行っていることは、超勤4項目以外の時間外労働をしないことになっている給特法以前の問題として、1日8時間を超えて労働させてはならないことなどを定めた労働基準法32条に違反しているのではないか」と問題提起。超勤4項目以外の教員の仕事で時間外労働をしているのであれば、労基法上の労働時間であり、労基法37条に基づく割増賃金を教職調整額とは別に支払うべきだとし、実際に一般企業が労基法32条違反を問われた過去の判例を踏まえ、教員の時間外労働を判断すべきだと指摘。仮に37条が適用されなくても、法定労働時間を超えて労働を強いられたことは国家賠償法による損害賠償請求が認められると主張した。

 この争点を巡り、3月に行われた証人尋問に立った教育法が専門の髙橋哲(さとし)・埼玉大学准教授は「公立学校の教員の時間外労働について、労基法32条違反を初めて争った裁判だ。超勤4項目以外は自発的行為とされ、タダ働きの状態となっていたが、これは労基法上の労働時間に該当するのではないかと問うもので、給特法にかかわらず、タダ働きは労基法違反だということを主張している。給特法の制定以降、さまざまな裁判があったが原告側の全敗だった。今回の訴訟は従来の訴訟と大きく違う」と注目する。

 3年間に及んだ裁判の中では、田中さんが時間外に行っていたテストの丸付けや学校行事の準備、教室の掲示物の作成など、50項目以上にわたる仕事内容の詳細なリストを証拠として提出。これらについて、校長の関与があったかどうか、特定の業務を強制されたかどうかなどが争われた。被告の埼玉県からは、業務を命じたことを認めたものの、時間外にやることまでは命じていないといった主張もあり、通常の勤務時間内では不可能な業務内容や量であることを反論していったという。

閉ざされていた扉が開かれた

 そして迎えた判決は、原告の請求を棄却。敗訴だった。

 教員が自主的・自律的な業務を行い、勤務時間外に及ぶこともあることから、超勤4項目だけでなく、それ以外の業務も含めた時間外勤務の超過勤務手当に代わるものとして、その職務を包括的に評価して教職調整額が支給されている。これを踏まえれば、給特法が超勤4項目以外の業務の時間外勤務について、教職調整額のほかに労働基準法37条に基づく時間外割増賃金の発生を予定していると解することはできない。

 そのような形で、判決の内容は従来の給特法の解釈を引き継ぎ、原告の主張を退けた。

 判決後に文科省で行われた記者会見で田中さんは「今日の判決は教員にとって大変残念な結果だ。法律で教員には残業は命じられないはずなのに、なぜ残業が存在しているのか。1日3時間以上も無賃労働で残業している状態がこの日本にある」と憤りを隠さなかった。

判決を受けて記者会見を行う田中さん

 一方で、判決では「画期的」な部分も多く示された。田中さんが主張していた「勤務時間外の業務は労基法32条に違反するのではないか」という問いに対し、判決では▽校長の職務命令に基づく業務が日常的に長時間にわたり、時間外労働をしなければ事務処理ができない状態が常態化している▽校長に労基法32条に違反するという認識があって、業務の割り振りなどの必要措置を怠ったまま、法定労働時間を超えて働かせ続けている――、こうしたことが認められた場合は、国家賠償法に基づく損害賠償責任を負うと踏み込んだ。田中さんが列挙した勤務時間外に行っている業務も、登校指導や全校朝会の引率など、一部については労働時間に当たると判断した。しかし、労働時間に当たるかはかなり慎重に検討されたこともあり、田中さんの場合は長時間の時間外労働が常態化しているわけではないとして、国家賠償法による損害賠償の請求は認められなかった。

 さらに、判決文には「給特法はもはや教育現場の実情に適合していないのではないかとの思いを抱かざるを得ず、原告が本件訴訟を通じて、この問題を社会に提議したことは意義があるものと考える」という異例の付言も添えられ、司法が行政や立法府に対し、給特法によるゆがんだ教員の労働環境を是正するよう、注文を付ける格好となった。

判決後に文科省で行われた記者会見で訴訟の画期的な側面を説明する弁護士ら

 代理人の江夏大樹弁護士は「判決は請求棄却だが画期的な内容だ。改正給特法では、在校等時間をタイムカードなどによる客観的な方法で管理することが求められており、校長は教員の勤務時間がどれくらいかを認識できる状態にある。教員の長時間労働を問えば違法と判断される可能性はある」と強調。

 傍聴席で判決の様子を見守っていた髙橋准教授は「教員の時間外労働が労基法32条に該当するというロジックは採用された。閉ざされていた扉が開かれた。今回の判決で、給特法下であっても、無定量に働かせ放題ではないことが示された」と評価した。

教員の過酷な労働環境を社会に訴えた「公共訴訟」

 この裁判は当初、原告の教員が労働組合などの支援も受けずに個人で起こした。しかし、田中さんの戦いを応援したいと、教員を志望する学生らが中心となって支援事務局を立ち上げ、訴訟経費のクラウドファンディングや漫画などを通じて田中さんがこの裁判に込めた思いを伝えていった。

 支援団体事務局のメンバーである学生の一人は「初任者なのに長時間労働をしている教員の友人がいる。そんな教員は訴訟を起こすことすらできず、声を上げられない。そんな中で田中さんが立ち上がってくれた。それだけに、今回の判決は悔しい」と話す。

 この裁判は、社会課題の解決を目指す訴訟を支援するウェブプラットフォーム「CALL4」でも取り上げられ、教員の労働環境の問題がより多くの人に社会問題として認知されるきっかけの一つともなった。

 「神奈川過労死等を考える家族の会」の代表で、過労死で中学校の教員だった夫を亡くした工藤祥子さんも、この日の裁判に駆け付けた。

 「最後の裁判長の言葉は今後に希望が持てる。教育行政やいろいろなところで、学校現場の実態を広げていかないといけない。田中先生が行っていた業務のうち、どこからどこまでが命令なのか。国家賠償法を請求することが認められるには、どれくらいの労働や命令の仕方なのかがあいまいだ。多くの教員に長時間労働が常態化しているのは言うまでもない。それなのに『勝手にやっていること』とされてきた。でもそれをやらないと学校が回らないから、校長が包括的にやらせている。これから、そういう事実を積み重ねて証明していくことが大切だ」(工藤さん)

 教員の長時間労働の問題を社会に訴え続けてきた内田良・名古屋大学准教授は「教員の長時間労働を無理やりさせていれば労基法32条に違反するということが認められたことは前進だが、田中さんのケースが損害賠償に当たらないというのは残念だ。勤務時間外も働いているのに、それが正答に評価されていないことは変わらない」と指摘する。

 元文科省の官僚で教育行政学が専門の樋口修資(のぶもと)明星大学教授は「判決は給特法の枠組みにとらわれているもので、給特法の枠組みに沿う以上、原告の主張は棄却せざるを得ず、限界がある」と指摘。「改正給特法では、在校等時間を把握することが求められているが、超勤4項目と自主的・自発的勤務が混在しているという二重構造にある。本来であれば、時間外勤務をしている点では同じはずであり、手当てを支給する形にすべきだ」と提案する。

 その上で、判決で付言された給特法の問題について「改正給特法の国会での附帯決議でもあるように、抜本的な見直しを政治的責任において行うことを求めている。校務分掌を自主的・自発的にやっているなどという非現実的なことが成り立ってしまっている給特法の枠組みは間違いで、財政事情の問題で切り捨てることは許されないと、財務省に対して文科省も主張していくべきだ。このままでは教員の志望者はどんどん減っていくことになる。給特法の抜本的な見直しをしない限り、教職の魅力は向上しない」と強調する。

教員の労働問題に真摯に向き合って裁判を起こし、社会に問題提起した

 教育新聞「オピニオン」の執筆者で、学校の業務改善に取り組んできた教育研究家の妹尾昌俊さんは、判決文について「学校長に対して、教員の健康と福祉を守る責任を明記している点は評価できる。判決文では、教員の働き方が労働基準法32条において違反している可能性があると考えられるときは、学校長が業務量や勤務時間の調整など、措置をとる注意義務を求めている。さらに、それらの措置をとらなかった場合は、国家賠償法の対象賠償責任を負うべきであると明記している。そこまで学校長の責任について、踏み込んで言及した点は評価できる」とした。

田中さんの裁判への思いを解説するパンフレット

 その一方で「教員の業務については自主的、自発的に行うものが多く含まれているため『定量的な労働時間による管理になじまない』と明記されている部分などは問題だ。ここ数年で教員の健康管理や勤務時間の把握を行う自治体は増えてきた。教員の仕事は大量で勤務時間外に及ぶことも各種調査で明らかだ。50年前の給特法制定時から教員の勤務の特殊性は変わらないという考え方は疑問だ」と批判。

「今回は下級審の判決であり、どこまで今後の学校教育に影響を与えるかは正直分からない。ただ原告が日本の教員の労働環境の改善に向けて真摯(しんし)に向き合って裁判を起こし、社会に問題提起した点はとても意義がある。今回争点となった点を踏まえて、国会や文科省、学校関係者、社会は、改めて教員の労働環境について考え直すべきだ」と話す。

(藤井孝良、板井海奈)

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