(円卓)中東世界での争い

文明論講座座長・地球システム倫理学会理事 清水良衞

 
新年3日目早朝のラジオであったか。サウジアラビアでシーア派イラン人高僧が、他の人とともに死刑執行されたのを知るや、在テヘランのサウジアラビア大使館にシーア派イラン人が押し寄せ、襲撃放火する事件が報じられた。初詣で大勢の人が集まる日本の正月にテロなどがなく、無事に過ぎればよいがと思いつつ過ごしたその正月3日であった。

もう30年も前になるが、「平和と宗教」という機関誌に「宗教と戦争―人類にとり宗教とは何であったか」との一文を寄せた。それは昔からの戦争原因としての宗教、特に一神教への関心から論じたものであった。その歴史状況は、今に至るも変わっていない。

その中で敗戦以来の日本は、わずか70年ながら、朝鮮戦争での特需こそあれ、一度も戦争をせず、戦争の犠牲者もだしていない。この歴史をこそ将来に向けて伸ばしていくことが、戦後70年を背負っている日本のできることであり、それは世界遺産にも匹敵する歴史づくりとなろう。私たち日本人は、人類史に重い責任を背負っていると、自覚すべきである。

IS(イスラミック・ステート)発のテロが広がる事態に加え、同じ神アッラーに祈りながら、サウジアラビアとイランの間で新たな争いが生じたが、その背景には、一方で復古主義、他方では反西欧・反近代の意識がある。さまざまな技術革新と多様化した価値観混在の宗教運動の中に派生したイスラム世界での、間欠泉のような運動が始まっているようにも見えてくる。

歴史は常に変化し、そこには類似事象もあるが、20世紀以降の変化は、文化的にも技術的にも、質量共に、画期的な出来事の連続である。16、17世紀の西欧キリスト教世界に生じたカトリックとプロテスタントの間の争いは、今日のイスラム世界でのシーアとスンニの間の争いを連想させる。キリスト教内では、カトリックとプロテスタント間での転宗があるが、イスラムのシーアとスンニ間では、それはまずありえない。信仰心の強い者同士が争う状況は、時代そのものが疲れるまで続くのかと思う。

ISにもまた、時代の疲れは訪れる。時代が人々にその生き方を疲れさせたとき、70年前の大戦は終わったのだった。この疲れに何を学ぶかが、人類の次の課題であろう。

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