(円卓)性善説への恐れ

地球システム倫理学会、比較思想学会会員 松田 康男

 

95年ごろ。米国カリフォルニア州駐在時代に付き合いがあったシリコンバレーの他の日系企業の方から「会社のアメリカ人から『日本人は人を安易に信用するので一緒に仕事をしているのが恐い』と言われた」と相談を受けた。同社の多くの駐在日本人について言われたそうである。アメリカ人の気持ちを代表していたのであろう。

私には経験がなかったので、当時は有効な助言ができなかった。しかし、なぜアメリカ人がそれを「恐れる」のかは想像がついた。日本人のお人好しが原因で会社に何か損害が発生し、それに巻き込まれるのを恐れたのだと思う。新しい客やサプライヤーなどがいきなり訪ねてくると、彼らの恐怖が浮上する。かといって、アメリカ人が人を信用しない態度をとっているわけではない。信用は全ての基礎であり、言動で信用を表わしているが、「完全に信用しきっているわけではない」との気持ちを持っているのは、おそらく全てのアメリカ人に共通だと言ってよいだろう。互いにそのような暗黙の了解があるから、かえってうまくいく面もあると思う。

ところで、現在のようにビジネスがグローバル化してくると、日本人の性善説は問題を引き起こす。そもそも性善説を唱えた古代中国の思想家、孟子の言説は、そう単純ではなかったと思われる。人には絶えざる修養が必要だとも説いているからである。本当に生まれながらにして善ならば、修養など必要ない。従って、日本人特有の解釈が横行しているように思える。

ではどうすればよいか。単純な性善説をとらないことだが、それだけでは不十分。信用している態度をとりながら「心の底では信用しきらないようにし、それを態度に表わさない」心理的訓練が必要だ。これはより大きな心的エネルギーを要する。いったん善人と思った相手を疑うのは日本の中だけなら比較的必要でないから、相手が善人か悪人かを決め付けたままで安易に流され続ける心理的単純化の気楽さに無意識に飛びつくことがくせになっていると思う。

漱石の「こころ」の言葉を座右の銘にしたい。「平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」

(元ボッシュ社勤務)

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