(円卓)教育ママだった母

清泉女子大学教授 榊原博子

 

私の右腕には種痘の痕が4つ残っている。昭和23年生まれの同い年の友人たちは、みな1つしかない。

どうして私だけなのかと母にただすと、種痘は幼いうちほど軽くて済むと聞いて、通知も来ないうちに、保健所に行き、無理やりに頼み込んで接種してもらったという。その後の法改正で、打つのは1つでいいことになったそうだ。

母はいわゆる〝教育ママ〟で、何でも「早く・速く」が良いと信じていた。

しつけにも厳しく、来客が帰った後には必ず何らかの不作法を叱られるのが常だった。

どうしてそんな細かなところまで知っているのかと思うほど、子どもをよく見ていたのである。

その母が、私が幼稚園に通っているときに習ってきた歌を家で歌っているのを聞いて、驚いたそうである。何を言っているのかわからない、まったくのでたらめな歌詞で得意げに歌っている私を見て、「親として幼稚園で習っている内容をきちんと知らないのはたいへん無責任で、このままではこの子がたいへんなことになる」と危機感を持ち、それ以来、幼稚園から学校を卒業するまで、私から目を離さず、足繁く幼稚園や学校に通い、ずっとPTA活動を続けていった。

学校にとっては、協力者であるとともに、うるさい存在でもあったことと思うと、先生方に申し訳ないような気もする。

しかし、母の思いを学校の先生方もきちんと受け止め 理解してくださっていたようである。母は、納得のいくまでPTA活動に打ち込んでいた。

今となっては、わが親ながら、頭の下がるような献身ぶりであった。それも、私たち子どもへの思いのなせる業であることを思うと、感謝の気持ちでいっぱいになる。今年も母の日には、白ではなく「赤いカーネーション」を仏壇に飾った。

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