(円卓)不断の見直し

千葉大学教育学部教授 寺井正憲

 

ビジネス書でよく取り上げられる古典「孫子」。孫子の兵法といわれるものだ。その虚実編に「兵を形あらわすの極きわみは、無形に至る」という一節がある。これを専門の国語科の学習指導に当てはめると、「国語科の学習指導の極みは無形に至る」となる。この命題は成り立つだろうか。

教育課程企画特別部会「論点整理」では、学習指導の在り方について「指導方法の不断の見直し」が強調された。これを受け、国語科では言語活動の充実は今後も重視するが、「単元を貫く言語活動」や方式に関する用語を文部科学省は今後使わないとする方針が示されたと聞く。普及に伴い型が生まれ、その通りやればよいとの風潮が出てきたのだろう。言語技術や指導技術を重視する立場では、一般的に指導方法に型を持ち徹底させるが、それに比べれば、言語活動の型といっても、よほど柔軟であろう。

研究講師として学校の全国学力・学習状況調査の結果、特に正答数分布グラフを見せていただく場合が多い。正答問題数の割合を国と都道府県を折れ線グラフ、実施校を棒グラフで表したものだ。国や都道府県の平均的な正規分布とは異なり、学校のものは、上位層・下位層が二極化したり、A問題はできるがB問題はできなかったり、A問題・B問題ともに都道府県の平均以下であったりと、千差万別の実態である。型通りの指導方法ではとても対応できない。

「孫子」虚実編に「それ兵の形は水に象かたどる」とあるが、学力向上に実績のある学校は、学校や児童生徒、地域などの特色や実態に応じて学習指導や教育課程を工夫している。異動した学校、受け持った学年、担任した学級に水のように自在に応じて工夫してとどまないというのが「不断の見直し」の一つの形であろう。

「活動あって学習なし」というのは言語活動の授業を非難する常套句だが、「指導あって学習なし」も往々見かける授業風景である。「教えた」という実感を教師が持ちたいのはわかるが、児童生徒の学びの有無や質量が問われなければ意味がない。

指導がないように見えるが、実は児童生徒が読み浸り書き浸るような没入した学習状態が成立することは、Learning by Doing(なすことによって学ぶ)の極致であろう。

不断の見直しとは「無形に至る」ことであって、それには実態に応じた、言語活動の授業づくりにおける不断の工夫しかあるまい。

あなたへのお薦め

 
特集