(円卓)教師の「話す」行為

埼玉学園大学子ども発達学科教授 梅澤実

 

一方的な講義形式、その対極にある授業としてのアクティブ・ラーニングが盛んに議論され、どのような活動を組織するかに目が向けられている。

それも大事である。しかし、そんな時だから、子供に「アクティブ」に語らせる前に、教師の「話す」行為について考えてみたい。

毎年、大学生が語る小・中学校での思い出に残る授業の中に、一方的としかいいようのない授業がある。それらの授業は、例えば、「先生は、この詩が大好きなんだ」と板書し、「この言葉、美しいだろ。ちょっと目をつぶって聞いていて」と、発問も活動もない授業だったという。だが、その授業で「言葉っていいものだ」「もっと言葉を勉強したい」と思ったと、学生は振り返って語る。一方的な教師からの話を、子供が主体的に聞くのを可能にした教師には、次のような共通性があった。

私たちのことをいつも一番に考えていてくれた。子供たちの質問に「それ、すごいことだよ」と認めてくれた。子供たちの質問に、すぐに正解を出すのではなく、一緒に考えてくれた。

こんな教師の姿勢が、一方的と思える授業を、8年近く経った今も記憶に残る授業にしたのである(むろんいつもそんな授業ではなかった)。子供たちは、そんな教師の日々の姿勢から、「何が大切か考え、どう行動するか」「疑問をもつことの大事さ」「正解を早く見つけるよりも考えることの大切さ」を学んでいたのである。だから、そんな教師が語る言葉に、「何が先生の心をつかんだのか」を探りたくて、主体的に耳を傾けたのである。

主体的、能動的学びを生成する根底には、形式的ではない聞くことの体験がなければならない。問題解決過程での支援を教師は言葉で行う。教師の支援を「試してみよう」と取り入れるのは、日々の教師の姿勢が子供に伝えているものがあってこそであろう。

大正8年(1919)年、倉橋惣三は、これからの教師について語った。

「先生は必ずしも生徒に与うべきものを貯蓄している人という意味でなくして、生徒と同じく常に自らもまた新しいものを得ようとする努力を続けて、その努力それ自身を以て後から来る所の生徒を励まし誘うものでなければならぬ」(倉橋惣三選集5巻、1996、フレーベル社)