(円卓)「ポスト真実」時代の人間形成

上智大学准教授 丸山 英樹

外国人が東京の地下鉄に乗ると、老若男女問わず多くの者が小さな画面に向かっている様子に驚くことがあるという。車内では、ツイッターの方が最新情報を得られるという広告が垂れ下がり、「今の若い人は新聞を読まないし、テレビも見ない」というニュースがモニターに流れる。

なるほど、世界トップクラスの通信速度と安定性に支えられたインターネットを介したリアルタイム情報の方が、手元のスマホで無料入手できるし、便利である。

ただし、「タダほど怖いものは無い」面もある。手軽に入手した情報が偏っていても、間違っていても、そのことに気付きにくい。なぜならば、情報伝播が速すぎて検証する時間がなかったり、単純化された形で情報が共有されたりすることがあるからだ。情報を拡散させる意図を持った集団の演出なのに多くの人が話題にしているように捉えたり、フェイク(虚偽)情報を正しいと錯覚したりすることもある。

虚偽情報を基に「自分が正しく、相手が間違っている」という主張がなされ続けると、社会の中では分断が生まれる。

もはや真実そのものを重視せず、自分や集団にとって都合の良い・聞き心地の良い情報であれば受け入れ、逆の情報を遮断する「ポスト真実」時代では、より分断状態が続くだろう。

こうした状況に対し、教育は何ができるのだろうか。国際化・グローバル化を扱う教育は多様性を尊重するが、「彼らには彼らの価値体系がある」、「私たちは彼らを理解しようと努力しているのに、向こうは努力していない」という対比を生み出すこともある。

メディアリテラシーを扱う教育では適切な教材を用いるが、実生活で学習者は見たい情報を取捨選択し、分断に加担するかもしれない。教育は良いこと・正しいことを教えるべきだという限り、これらは避けようがないのかもしれない。

だが、人間形成という観点からすると、私たちはどのような状況でも「何か」を学んでいる。各自が学んだ何かを認め合うには、まず自分の学んだことに気付き、自分なりの価値付けを行い、他者の学びにも敬意を払い、不愉快でも対話を遮断しない努力が必要なのだろう。それは苦痛に満ちたものだが、次世代へ思いをはせると、耐えられないことではない。