もしまた、あの時と同じような災害が起きたとしたら、子供たちの命を守れるだろうか――。東日本大震災から10年がたち、防災教育の重要さが改めてクローズアップされるとともに、各地で新たな試みも広がってきている。
〈そっちには行かせられない〉〈放射能あぶないじゃない〉。福島県相馬市の県立相馬高校の生徒が震災の3年後に制作した映像作品『これから。』は、福島第一原発の事故が引き起こした分断がテーマだった。疎外感、悔しさ、もどかしさ……被ばくの不安とともに生きる高校生の視点が、人々を隔てる「見えない壁」を浮き彫りにしていた。自分たちを置き去りにする社会に向かって声を上げた生徒たち。
あの日、無人地帯が生まれた。メルトダウンした福島第一原発から半径20キロ圏の警戒区域と放射線量の高い計画的避難区域。そして緊急時避難準備区域。福島県南相馬市でも暮らしの場が分断された。県立原町高校は一時、他の高校の敷地に移転した。そこに赴任した美術教諭、朝倉裕一朗さんは、生徒たちに自分の言葉を添えた自画像を描かせて、地元の人たちに発信するという活動を続けてきた。
東日本大震災による津波で、宮城県石巻市の大川小学校(当時の児童数108人)では児童74人と教職員10人が犠牲になった。6年生だった次女のみずほさんを亡くした佐藤敏郎さん(57)は当時、隣接する女川町の中学校教師だった。学校管理下で起きた惨事に、遺族であり教員でもある立場から向き合い続け、現在は「小さな命の意味を考える会」の代表として、あの日起きたことを問い直し、語り継ぎ、未来につなぐために活動している。
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