ジェンダーの「課題」は多様で、そもそも「課題」と共通認識することすら簡単ではなく、「先生の人生」も考慮しなければなりません。読者の中には再び、「じゃあどうすればいいの?」と思われた方もいるでしょう。最終回は、三つの提案で締めくくりたいと思います。
今回は、ジェンダーの課題を「課題」として共通認識することの難しさを説明します。 この連載を読んだ先生であれば、学校で用いられる「性別」情報の多さを認識するかもしれません。一方で、ジェンダーに全く関心のない先生からすれば「性別」情報は「自然」であり、何とも思わないかもしれません。
現代社会には、数多くの教育課題が存在しています。おそらく先生に対する期待が大きいのでしょうが、あらゆる課題で「先生(学校教育)に頼ること」が強調されています。そんな時、私は「先生も一人の人間であり、その人の人生があることを忘れているのではないか」と思うことがあります。
前回紹介したジェンダー教育実践は、誰でも取り組めるという点で「パッケージ化」されていると言えます。ジェンダー教育実践に限らず、さまざまなテーマについて教材集や実践事例などがまとめられていますが、これらもパッケージ化されたものと言えるでしょう。
本連載ではこれまで、学校にはさまざまなジェンダーの課題が存在することを指摘してきました。読者の中には、「じゃあどうすればいいの?」と思われた方もいるかもしれません。拙著『〈教師の人生〉と向き合うジェンダー教育実践』では、ジェンダーの課題を改善していく取り組みを「ジェンダー教育実践」と呼んでいます。
大学の講義でジェンダーを扱うと、「性的マイノリティー」、いわゆる「LGBT」当事者についてのコメントが多くの学生から寄せられます。「ジェンダーへ配慮する=LGBTへ配慮する」ではないのですが、イコールで考えてしまっている学生が少なくありません。
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