今年度から新学習指導要領による新しい教育課程が年次進行で始まった高校。つい普通科にばかり目が行きがちだが、専門高校でも探究を重視した新しい取り組みが始まっている。東京都ではSociety5.0に向けて工業系学科をアップデートする「Next Kogyo START Project」を進めている。その一環として注目されているのが、IT企業と専門学校が都立工業高校と連携し、デジタル人材を育成するプログラムを展開する「Tokyo P-TECH事業」だ。その実施校の一つである都立荒川工業高校と、クラウド事務管理ソフトを手掛ける「freee」による、IT企業での仕事を体験しながらエンジニアの仕事の面白さを知る課外授業に密着した。
平日の午後2時、東京都品川区にあるfreee本社会議室に、荒川工業高校から7人の生徒がやってきた。同社の会議室は全てガラス張りで、中からも外からもお互いの様子がよく分かる。ガラスの向こうには、仕事を進める同社の社員の姿。当然、向こうからもこちらの様子はよく見えているはずだ。
簡単な自己紹介の後、生徒は荷物を置いてオフィスの中を見学。静かな環境でリラックスしながら作業をしたり、チームで話し合いながら仕事に取り組んだりする社員の様子を目の当たりにして、その自由な職場の雰囲気に、ある生徒は「自分が思っていた会社のイメージとかなり違うけれど、この方が仕事の効率もよさそう」とカルチャーショックを受けていた。
会議室に戻ると、生徒は学校から持ってきたノートパソコンを立ち上げる。この日は、ウェブサイトのユーザーインターフェースでよく使われる機能を効率的に開発できる「React」を使って、「三目並べ」のゲームをつくることに挑戦する。
どの生徒もReactは初心者。講師を務める同社エンジニアの湯木大輝さんは「まずは簡単なものから、とにかく手を動かしていく。作って動かしていくと、『こう書くのか』とだんだん分かってくる。そうやっていくうちに、『こういうのがあったらいいな』を形にする力が身に付いていく」と背中を押す。
生徒はチュートリアルに従ってコードを書いたり、直したりを繰り返す。その過程で予想通りの結果が出なかったり、画面上にエラーが表示されたりすることもあるが、そのときはどこが間違っていたのか、自分の目で確かめながらデバッグをする。中には、どんどん次のステップに進んだり、自分で応用を考えて試したりする生徒もいた。ここでは、そうした行動はむしろ称賛されるので、生徒たちもどんどん課題にのめり込んでいく様子が見ていて分かった。
途中で湯木さんが「後半で一気に難しくなるので、多くの生徒がつまずくだろうと予想していたのに、思っていた以上にみんな進んでいる。教える方のこちらが追い付かないと」と目を見張るほど、実質2時間ほどの作業時間でかなりの生徒が最終ステップにたどり着いていた。
最後には、それぞれ付箋に今日学んだことを書き込み、ホワイトボードに貼って共有。そこには、「Reactは初めて使ったけれど、本質は他のプログラミング言語と一緒だと思った」「じゃんけんやリバーシなどに応用できそう」「英語が苦手なので、エラーの意味を理解するのがしんどい」「ミスを見つけるのに時間がかかったけれど、直してちゃんと動くと楽しい」といったコメントがみられた。
「吸収する力がとてもある生徒たちだった。プログラマーの成長に欠かせないのは、何を知っているかということよりも、どう応用できるか。彼らが伸びていけば、十分にIT業界で活躍できるようになる」と、湯木さんは太鼓判を押す。
「Pathways in Technology Early College High Schools」の略称であるP-TECHは、IT企業が協力してSTEM、キャリア教育、技術教育に関するプログラムを高校現場で実施する教育モデルとして、世界28カ国で行われている。日本では2019年度に都立町田工業高校と日本IBM、日本工学院八王子専門学校がタッグを組んだのが最初で、その成果を踏まえ、都教委は「Tokyo P-TECH事業」として今年度、新たに都立府中工業高校と、荒川工業高校を実施校に加えた。
電気科、電子科、情報技術科がある荒川工業高校では、freeeとウチダ人材開発センタ、日本電子専門学校、ソフトバンクをパートナーにP-TECHをスタート。それぞれの頭文字を取って「A-FUNS」と呼ばれている。
これに合わせ同高では、部活動としてAI部を立ち上げた。AI部では、東京電機大学の学生が部活動指導員として協力したり、山形県のIT企業と県内の高校生がコンソーシアムを組んで、高校生がプログラミングやAIについて学ぶ「やまがたAI部」に県外ながら参加したりしている。今回の課外授業に参加した生徒も、このAI部のメンバーが中心だ。
生徒がプログラミングする様子を熱心に見つめていた西牧豊実校長は「学校の授業では、知識を身に付けさせるというスタイルになってしまいがちだ。このように手を動かしながら、トライ&エラーを繰り返していくやり方は教員にとっても新鮮だが、1人1台の環境に親しんだ子どもたちが今後入学してくることを考えたら、高校の授業のやり方も考えないといけない」と、企業のやり方を学ぶことは学校としてもメリットになると強調。「授業ではどうしても一斉指導が基本になるので、意欲の高い生徒をどう伸ばしていくかが課題だった。放課後の活動であれば、授業のような縛りも少なく、もっとやりたいという子が集まり、企業も思う存分力を発揮してもらえるのではないか」と、課外活動での企業との連携に期待を寄せる。
興味深いことに、翌週に行われた課外授業の2日目は、1日目と一変して、パソコンを一切使わないプログラムが用意されていた。
「ソフトウェアを開発する会社はより早く、より価値のある製品をユーザーに届けたい。早ければ早いほど、ユーザーが困っていることは解決する。つまり、早いことに価値がある。ソフトウェア開発は複数の人の仕事がつながっているが、個々がたくさんの仕事をして、最速で仕事を終わらせることができれば、多くの機能を早くリリースできるだろうか」
2日目の講師で、同社エンジニアの松澤伸一郎さんのこの問い掛けから、この日の課外授業はスタート。まずはこの問いを確かめてみるため、生徒は2つのチームに分かれて、コイン渡しゲームに取り組むことになった。
各チーム1列に並び、20枚のコインをひっくり返して次の人に渡していく。1人が全てのコインをひっくり返すのにかかった時間、最初のコインが届くまでの時間、全てのコインが届くまでの時間をそれぞれ計測。20枚を一度にひっくり返した場合、5枚ずつひっくり返していった場合、1枚ずつひっくり返した場合で、結果を比較するとどうなるかを検証するというものだ。
実際にやってみると、20枚のときよりも、5枚ずつ、1枚ずつのときの方が、1人の作業時間は増える傾向にあるものの、最初のコインと最後のコインが届く時間は短くなる。松澤さんは「一人一人の作業を小さくすると、ユーザーに届くまでの時間が早くなる。また、実はユーザーが作ってほしいものをこちらが勘違いしていたということもよくある。ユーザーに届くまでの時間が早ければ、勘違いに気付くのも早くなり、修正もできる。このように、正しいユーザーフィードバックを受けるという意味でも、一個一個の作業を小さくするのは大事だ」と解説。この実験を通して、生徒はIT企業で取り入れられている手法の一つ、「アジャイル開発」の考え方を体験的に学んでいることになるという。
さらに後半は、このアジャイル開発の一種である「スクラム開発」を知るワークショップとして、紙飛行機ゲームにも挑戦。2つのチームはそれぞれ、制限時間内に3メートル以上飛ばせる紙飛行機をできるだけ多く生産することを競う。はさみを使う人、飛行機を飛ばせる人は1人だけ、紙飛行機を折る場合も、2回連続で折ることはできず、一度折ったら他のメンバーに次の工程を任せなければいけないという制約が課せられている。これを4回繰り返し、合間に振り返りの時間を設ける。
これがやってみるとなかなか難しい。まずは3メートル以上飛ぶ紙飛行機を考えなければならない。しかし、よく飛ぶ紙飛行機だとしても、あまりに作業工程が多ければメンバー間で作り方を共有するのが難しく、折る時間もかかるため、量産には向かない。こうしたさまざまな要素を考慮しながら、やってみては改善を繰り返していくのが、このワークショップの肝だ。
あるチームでは、なかなかプロトタイプが決まらず、3回目まで1度も規定の3メートルに達した紙飛行機がない状態で、最後の4回目を迎え、何とか3個の紙飛行機が3メートルの目標をクリアすることができた。また、もう一方のチームでは、最初の2回目でプロトタイプとなる折り方を見つけ出すことができ、3回目には11個の紙飛行機を飛ばすことに成功。そのうち10個の紙飛行機が規定の3メートルを越えた。ところが、4回目には、テストした紙飛行機は10個で、3メートル飛んだ紙飛行機が6個に減少してしまった。
そのチームのメンバーの一人は「3回目にうまくいったものだから、4回目はつい利益や効率を求め過ぎて、しっかり折れていない紙飛行機が多く出てしまったのではないか。ゆとりが大事だということが体感できた。もし4回目にもっと成功していたら、これは分からなかったかもしれない。失敗してよかった」と分析していた。
最後に松澤さんは「計画して、実装して、振り返りをしながら細かく軌道修正していくのが『スクラム開発』。紙飛行機でもそうだったが、やってみないと正解が分からないこともある。リリースしてユーザーの反応を見ながら改善していく柔軟性が大事だ」とアドバイス。このプログラムは松澤さん自身が新人の頃に研修で受けたプログラムをアレンジしたもので、エンジニアとして、プログラミングだけでなく、チームで仕事をすることの大切さを高校生に知ってもらいたいという意図が込められているそうだ。
同社では、今後もAI部の活動のサポートをはじめ、荒川工業高校とさまざまな連携を予定している。西牧校長は「専門学校や企業が入ると、高校の教員の考え方も少しずつ変わっていく。取り組みをまずは継続させていくことが大事だ」と力を込める。