私たちは「教育」で、子どもの何を育てたいのだろうか。
江戸時代の教育学者、細井平洲の言葉に「人の子を教育するは菊好きの菊を作る様にはすまじく、百姓の菜大根を作る様にすべきこと」というものがある。
「菊好き」は菊の葉やつぼみを切り落としながら、理想的な好みの形を目指して育てる。菊作りには良い方法だが、人を育てるにはふさわしくない。一方、「百姓」は大根が曲がろうが大きかろうが小さかろうが、「おいしくなあれ」と育てる。
人は一人一人、全員が違うということと、本来持っている「育つ力」を信じて伸ばすことの大切さを思い出させてくれる言葉だ。
しかし最近は、自身が菊好きなのでは、と悩む先生たちによく出会う。
「子どもの内発的なものを大切にしたい。でも、それで学級が混乱しないか心配でできない」「発表での立派な姿を求め過ぎて、あの子を追い詰めてしまったかもしれない」「今のやり方では、『言われたとおりに動く力』を育てていることになっていないだろうか」――。
大人の都合や好みを優先させていないか、一方的な「あるべき像」と比較して、子どもに否定的なメッセージを送っていないか、子どもの本来持つ「育つ力」の邪魔をしていないか……と自問自答し、同時に、百姓目線の教育への不安も抱えている。
菊好きから百姓への転換をしようと奮闘している先生や学校の難しさを、この数年で非常に多く見聞きする。根っこをたどると、難しさの一つには周りからのプレッシャーがあるようだ。
例えば、ある小学校の運動会でのこと。例年は演目の完成度を上げることを目指して指導していたが、その年は子どもの意見で作り上げることを大切にした。百姓への転換の試みだった。
当日、拙さもあったが子どもたちは充実感でいっぱいで、保護者からも「よかった」という声があった。が、一部の保護者からは「前の方が立派だったのに」という声が出た。そのため、翌年は以前のやり方に戻すこととなったのだった。
先生たちは保護者の声、特に「変えてほしい(戻してほしい)」といった類いの声には敏感だ。それに加えて、先生自身の内面に「シフトしていいのだろうか」という不安があれば、なおさら揺れる。
国の審議では「正解主義的、教師主導的、予定調和的な在り方」が日本型学校教育の弱みだとされている。これは「菊好きの教育になっていないか」という指摘だと、私は思っている。
この指摘が全ての学校に当てはまるわけではない。しかし、国として「弱み」とまで踏み込んだ表現をされるほどだ。そこからの変化には相当大きなエネルギーが必要で、前出の先生たちの葛藤はまさに、現状を問い直しながら奮闘するからこそのもの。心から応援したい。
百姓の教育活動は、菊好きのそれと比べれば、直線的ではないし、子どもたちのそろわなさや拙さが目立つこともある。
これまでと学びの様子や風景が変わることもあるため、保護者や社会の理解が必要だ。
国やメディアからのそのための発信は大いに期待しつつ、各学校や先生は、まずは信頼できる保護者に、理想や本音を率直に、オープンに伝えてみるところから始めてはどうだろうか。
菊好きのやり方から変化したいが、教員にも未知な部分が多いこと。
教員は完璧ではなく、百姓のやり方も単なる放任ではない。そこが難しいところであり、迷いながらであること。
長い目で見てほしいこと。
こうしたことを保護者に伝えるのは勇気がいることかもしれない。特に、自らも菊の花のように、さまざまな期待に応えて頑張ってきた先生や学校にとっては、心理的抵抗があるだろう。「勇気を出して伝えている」ということも含めて開示していいのではないだろうか。
一方で、保護者は自身の影響力に無自覚なこともあるため、その影響力に気付いてほしい。
保護者の理解が欠かせないと気付いた先生や学校では、弱みも本音も伝え始めている。
まずは話を聞いてくれそうな保護者に、例えば個人面談やPTA役員会など、信頼できる場で話題にしてみるといい。
私の知る複数の例では、事前にシミュレーションして当日はドキドキしながら伝えるが、心配するようなこと、つまり信頼を失ったり対立したりという事態にはなっていない。むしろ、温かく迎えられている。
「子育てでも同じかもしれませんね」「自分たちも考えたい」となることもあるし、中には「言い出してくれるのを待っていた」「感謝したい」ということもある。
その感触に応じて、学級・学年懇談会やPTA総会、学校だより、入学説明会、地域の集まりなど、少しずつ輪を広げていきたい。
「子ども一人一人が尊重される教育」へ。言葉にすればごくありふれた表現だが、それを当たり前にできるかどうかの過渡期に私たちは今、いる。
大根百姓にピンと来る先生たちのその感性を、素直に、自信を持って実現できる世の中になればと願う。