「ウェルビーイング」どう測る 労働経済学・川口教授に聞く

「ウェルビーイング」どう測る 労働経済学・川口教授に聞く
労働経済学が専門の川口教授
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 2023年度から始まる第4期教育振興基本計画の策定に向け、中教審の教育振興基本計画部会では議論が進められている。総括的な基本方針として検討されているのは「持続可能な社会の創り手の育成」と「日本社会に根差したウェルビーイングの向上」。臨時委員として同部会に参画する東京大学大学院経済学研究科の川口大司教授は「こうした抽象的なコンセプトをどう指標化し、測定していくか、共通理解を進めていくことが重要」と指摘する。川口教授が専門とする労働経済学やEBPM(Evidence Based Policy Making、エビデンスに基づく政策立案)の観点から、教育政策を前に進めていくためのヒントを聞いた。

基本方針の方向性は間違っていない

――次期計画で検討されている「持続可能な社会の創り手の育成」と「日本社会に根差したウェルビーイングの向上」という、総括的な基本方針をどう見ますか。

 方向性としては間違っていないと思います。今、労働市場は大きく変化しています。AI技術の進展とともにルーティン的な仕事が減り、また人口が高齢化していく中で、就業構造も変化しています。ここ10年で最も雇用者数が伸びている産業は「医療・福祉」で、これまで家庭の中で行われていた介護や保育などのケアワークが市場化されているのが特徴です。

 こうなると製造業中心だった時代と比べて、求められるスキルセットが変わってきます。先が見通せない時代に、臨機応変に対応する能力を養うことは間違っていないし、ウェルビーイングを大切にするという考え方も間違っていないと思います。

 問題は、それらの能力をどのように共通理解し、測定するのか、ということです。審議素案にあるような「予測できない未来に向けて自らが社会を創り出していく」能力とは、いったい何なのか。「ウェルビーイングの実現」についても反対する人は少ないと思いますが、実際にウェルビーイングをどう測定していくべきかとなると、難しいところです。

 

 経済学者も長きに渡り、ウェルビーイングの測定に取り組んできました。例えば満足度を10段階で回答してもらい、その平均値を見る方法で、そこでは10段階を等間隔のものとして捉えています。しかし満足度が3から4に上がるのと、5から6に上がるのは、本当に同じことなのか。すでに満足度が高い人の方が、満足度の向上を実感しにくいのではないか。そうした問題意識から、満足度の段階が上がるほど、変化の幅が小さくなるような方法を考えた上で平均値を求めると、2つの集団の満足度の順位が入れ替わることがあるのを指摘する研究もあります。

 そう考えると、理念として「ウェルビーイングの実現」を掲げるのはよいけれど、単一の方法で満足度を測定して、それをKPI(Key Performance Indicator、重要業績評価指標)として掲げるのは、行き過ぎのように感じます。測定できないということは、おそらくコンセプトが十分に定まっていないということですから、計画の初期の段階では、コンセプトをどう指標化し測定するのか、関係者の共通理解を進めていく必要があると思います。

――「日本社会に根差したウェルビーイング」として、「人とのつながり」を重視する側面も議論されています。これは測定できるのでしょうか。

 経済学の分野では、ソーシャルスキルを国際貿易のモデルに当てはめたデミングの研究があります。得意不得意がある2人がいる時、お互いに分業して得意な部分を交換した方が、全体として成果が大きいということなのですが、国際貿易のモデルでは本来、交換するときに「運送費」というコストが発生します。デミングはこれを「ソーシャルスキル」に当てはめ、それが大きいほど分業するコストが小さくなる、としたのです。実際、ソーシャルスキルの高い人がチーム内にいると、チームのパフォーマンスが上がるという研究もあります。

 ただ、こうした「ソーシャルスキル」が性格のようなものなのか、教育によって向上させることができるものなのかは、私も気になっているところです。中教審部会の議論を聞いていると、教育関係者の方々は「ソーシャルスキルは、教育により伸ばすことができる」と考えている部分が大きいのだな、と感じます。

 こうした「人とのつながり」を重視する目標は、エビデンスがまだ十分に蓄積されていない、つまり「まだよく分からない」と言える部分ですから、実際に政策を行いながら評価していくこともできます。これは「ポリシー・ベースド・エビデンス」という考え方で、今までにやったことのないような政策を導入する時に、例えば導入した地域とそうでない地域で、それぞれ記録やデータをしっかり残しておき、結果がどのように異なっていたか、後から評価していくということです。

 例えば、チームで協働する力を伸ばすような新しい教育を導入するとすれば、先行的に取り組んだA市と、計画の期間内には取り組みに至らなかった隣のB市の子供たちの記録を詳細に残しておくのです。そうすれば、学力調査や大学進学率などのデータと合わせて、その新たな教育がどのようなアウトカムに至ったか、かなりの確度をもって因果関係まで分析することができます。

一般国民に伝わるエビデンスとロジックを

――教育分野のEBPMの現状をどう見ますか。

 教育振興基本計画部会の最初の会合で、「エビデンスに基づき政策提言をすることが重要だ」と述べましたが、同時に今、議論している教育政策の多くは、そう簡単にEBPMの枠組みに乗らないものも多いのだろう、という認識もあります。

 一つ一つの施策に対応したデータセットを作っていくのは現実的ではありませんから、国が行っている「21世紀出生児縦断調査」のような、大規模で汎用(はんよう)性の高いデータをインフラとして整備していく必要があります。同じ子供たちを継続的に観察できるデータの基盤があれば、教育の成果がその後、労働市場にどうつながっていくかが分かります。

 「全国学力・学習状況調査」も、その意味では悉皆(しっかい)で行うメリットは大きく、IDで個人を識別できれば、異時点の情報をつなげて分析することができます。抽出調査では調査対象に選ばれた年とそうでない年が生じてしまい、子供たちの成長を継続的に確認することが難しくなってしまいますから。

 現状の課題は、データの利活用と個人情報保護の問題です。海外では、課税情報や社会保険の加入状況などの行政データと、教育プログラムへの参加状況のデータをひも付けて分析できるようになっていることもありますが、日本ではまだルールが十分に定まっていません。加えて、データの利活用によってどんなメリットがあるのか、どんな政策デザインができるようになるのかが、社会全体で十分に理解されていないのが実情です。

 現在でも一部の省庁や自治体では、行政情報の学術利用を認めています。やはり、できるだけ良いデータを使って評価を行うことが大切になりますから、次期計画の5年間で国のパネルデータや行政情報の利用に関するルール整備が進み、こうしたデータを活用した、政策評価の具体的な事例が出てくることを期待します。

――エビデンスといえば、「教員の『量』的充実度はすでに先進国の中でも高い水準」とする財務省のデータは、学校現場にはあまり実感を持って受け止められていないようです。現場の実感とデータのずれを、どのように考えますか。

 教育関係者の一人として、私にも「現場の実感」はあります。学校現場が大変だと言っていることは、おそらく正しいのでしょう。とはいえ、財務省に対して反発していても仕方がないですから、一般国民に対して、エビデンスとロジックをもって説得するしかありません。学校現場の感覚を生かして、一般国民に理解してもらえるようなデータや指標を出していく必要があります。

 現場感覚に近い指標として、例えば「離職率」が考えられます。先に述べたように満足度は測りがたい部分がありますが、離職行動は満足していないことの表れであり、客観的に示すことができます。学級当たりの児童生徒数が多い学校と少ない学校を比較し、教員の離職率がどう異なっているかを検証した上で、離職を抑える対策を考えていけば、教員の長期的なキャリア形成が可能になり、教育の質の向上にもつながると考えられます。

 もちろん、学校現場だけでは難しいこともあるでしょうから、計量分析の専門家などと連携しながら、どのようなデータを収集し、どのような指標を設けた上で取り組みを進めていくのがよいのかを、検討していくのがよいと思います。こうしたことは国レベルだけでなく、自治体レベルでも行うことが可能です。

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