長く続いたコロナ禍で子どもたちの教育格差が一層拡大していることが懸念されている。中でも、学力以上に顕著に影響が出ていると指摘されているのが「体験」だ。修学旅行や運動会といった学校行事が中止・制約されたり、感染防止や経済的な事情などから、家庭で子どもたちが非日常的な体験を味わえる機会が減少したりしている。こうした体験の格差の問題解決に取り組もうと、1月に「子どもの体験格差解消プロジェクト」が立ち上がった。その発起人の一人であり、教育経済学が専門の中室牧子慶應義塾大学総合政策学部教授に、体験が秘めている可能性を聞いた。中室教授は、プロジェクトを通じて体験が子どもの能力を伸ばす効果をデータで示すとともに、そのエビデンスを基にコロナ禍の影響を受けた子どもたちへの社会的な投資を促していきたいと意気込む。
プロジェクトは社会課題の解決に取り組む㈱Ridilover(リディラバ)、学習塾の「花まる学習会」を展開する㈱こうゆう、さまざまな遊び・体験プログラムの予約サイトを運営するアソビュー㈱、中室教授が中心となり、経済的困難や不登校などで体験活動の機会が少なくなっている子どもたちを対象に、2025年3月末までに地方での宿泊型の体験プログラムを提供する。その目標は1000人で、アソビューの予約サイトを利用した際に付与されるポイントをユーザーが寄付するといった方法で、この問題への社会的認知の向上にもつなげつつ、資金を確保する計画だ。
なぜ体験に着目し、プロジェクトを始めようと決意したのか。その理由を中室教授は次のように説明する。
「そもそも学校教育は格差を解消するための重要な装置だが、学校教育の中でみんなを平等に扱ってしまうと、格差が拡大する方向に作用してしまうこともある。私自身もまた、自分のリソースを使うのであれば、何らかの形で格差の解消に資することに使いたいと考えてきた。それが今回は、体験だと思っている」
実は、近年の教育経済学の研究でも、体験の投資効果が注目されているという。プロジェクト発足の記者会見の中で中室教授は「勉強に投資すると学力が上がり、その結果、学歴が高くなり、将来の収入も増えるので、勉強の投資が将来の成否を分けるのはよく知られているし、経済力をはじめとするさまざまな親の力が関係していることも認知されるようになってきている。一方で、体験も非常に重要で、体験への投資もまた、子どもたちの学力や非認知能力を高めるというエビデンスが出てきている」と説明。それを裏付ける具体的な海外の調査研究を紹介した。また、日本ではこうした研究はほとんどないものの、厚労省が行った大規模追跡調査「21世紀出生児縦断調査」のデータを基に中室教授が分析したところ、体験への時間投資は親の学歴が高いほど長いことが示されたという。
子どもたちに直接体験プログラムを提供し、この問題への社会的な認知を向上させる今回のプロジェクトには、体験が子どもたちに与える影響を科学的に検証し、エビデンスを得るという、もう一つの目的がある。調査研究を監修する中室教授は記者会見で「プロジェクトに参加した子どもを対象にして定量、定性のデータを取っていきながら、彼らがどう変化したかを調べなければいけないのが一つ。もう一つは、今回は予算に限りがあるので、希望した子ども全員を受け付けられるわけではない。希望したが参加できなかった子どもたちと、参加できた子どもたちを比較することで、どれくらい違いが出るのかも見ていきたい。その差が示せれば、残念ながら参加できなかった子どもたちも次回は参加できるように、プロジェクトを少しずつ大きくしていく形のファンドレイズにつなげることができる」と強調。
一方で「必ず効果が出ると約束できるわけではない。もしかすると効果が出ないこともあるかもしれない。その場合に、どのように改善すればいいのかを内部で話し合うためにも、データはちゃんと取っていかないといけない」と話す。
さらには、この調査研究によって「どのような体験がより効果が高いのか」といったことも分かるかもしれない。この点について中室教授は「体験の中には、認知能力や非認知能力の上昇につながるものとつながらないものがあるのではないかとは想像している。手芸が得意な子もいればアウトドアが好きな子もいるというように、子どもにも好みがあるので、データ解析の力を借りて、明確にこのタイプの子にはこういう体験が向いている、うまくいくだろうというのをパターン化していくことはある程度できるのではないか」と予想する。
しかしその一方で「気を付けなければいけない論点としてよくありがちなのは、この手の話はジェンダーバイアスを引き起こしやすいということだ。例えば、アウトドアでたき火をするのは男の子が得意だと勘違いして、ジェンダーバイアスを引き起こすという研究がある。だから事前にあまり決め打ちをしないことも非常に大事で、ランダムに体験を与えながら、どういうものが子どもたちの意識や能力を変化させるのかを客観的にデータで追っていく必要がある」と慎重な見方も示した。
体験の効果が日本でも実証されれば、学校教育にも大きなインパクトがもたらされる可能性もある。
「日本の学校現場は学力や偏差値に重きを置き過ぎている。それが悪いと言うつもりはないが、裏返しとして体育や音楽、美術、家庭科といったいわゆる『副教科』と呼ばれている授業が減らされていく傾向にある。それがエビデンスに基づいた正しい判断なのかというと、少なくとも海外の研究などを見ているとそうとは思い難い部分もある」と中室教授。「学校のさまざまな活動の中で獲得してきたリーダーシップやコミュニケーション能力は、労働市場の中にすごく大きな影響があるという研究もある。そう考えると子どもたちの将来の成功や選択肢を広げる上で決して無視できないけれど、やっぱり軽んじられている面はあると思う」と、日本の教育観に疑問を投げ掛ける。
すでに、コロナ禍による運動会の中止・縮小によって「自分自身に自信を持てていた」「難しいことでも前向きに取り組めていた」などの小学生の非認知能力に影響を与えていたとする、日本財団と三菱UFJリサーチ&コンサルティングの共同調査が出ている(2021年6月29日付本紙電子版「休校が格差拡大を裏付け 行事中止が非認知能力に影響」)。
また、チャンス・フォー・チルドレンが昨年末に公表した調査では、小学生の子どもがいる世帯年収300万円未満の家庭のうち、29.9%が学校以外での体験活動がないと答えていた(22年12月15日付本紙電子版「低所得世帯の約3割が学校外の体験ゼロ 収入の格差顕著に」)。コロナ禍によって体験の機会が失われたことで、子どもたちは能力を伸ばす機会を奪われ、さらにそのチャンスは家庭の経済力によって差が広がっている。体験の格差という問題を解決しなければいけないのは、日本の社会にとって喫緊の課題だ。
中室教授は「コロナ禍での学校行事の中止・縮小が子どもの成長にとって大きな打撃になったのは間違いない。コロナの影響を受けた子どもたちが、この先、他の世代と比べて極端に不利にならないかとても気になっている。もしこの世代が悪影響を受けたというのであれば、就学期の間にどんどん投資をして、取り戻していかないといけない。大人になってから取り戻すのは難しい」と警鐘を鳴らす。