【3.11】災害と災害の間を生きる 命と向き合う教育を

【3.11】災害と災害の間を生きる 命と向き合う教育を
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 東日本大震災から12年、人々は震災を過去のこととして捉えていないだろうか。子供たちは常に災害と災害の間を生きている――。東日本大震災当時、宮城県石巻西高校の教頭として避難所の運営にあたった齋藤幸男氏の『生かされて生きる―震災を語り継ぐ―』(河北選書)を原案とした、映画『有り、触れた、未来』が3月10日から全国上映される。現在は防災教育を切り口とした命の教育の大切さを広めるために全国の学校などを回っている齋藤氏に、震災当時のことや現在の活動について、そして災害の間を生きる子供たちと教員に向けたメッセージを聞いた。

涙も笑顔も枯れることはない

 12年前の2011年3月11日、石巻西高校は高校入試の業務に追われていた。入試業務で出勤していた職員は25人。生徒は自宅学習日だったが、部活動などで約150人が登校していた。

 午後2時46分、突然の激しい横揺れが襲った。揺れが収まるのを待ち、生徒たちをグラウンドに退避させ、けがの有無などを確認する。そうこうしているうちに、防災無線から大津波警報が鳴り響いた。学校近くの定川が決壊し、仙石線の線路も越え、周辺の田畑や道路までもが冠水した。

 当時、同校は指定避難所ではなかった。それでも、同校には近隣の住民が次々と避難してきた。学校は駆け込んできた人々を順次受け入れ、この日から同年4月23日まで、教職員によって避難所が運営された。「指定避難所ではなかったため、避難所運営のマニュアルもなかった。混乱の中、マニュアルにはない判断をする覚悟を求められた」と、齋藤氏は当時を振り返る。

 44日間に及んだ避難所運営。齋藤氏は当時、どんな思いで避難所運営をしていたのかを、旧友に向けた手紙として書き残している。これは、震災から5日目の3月15日の手紙だ。

3月15日(火)
 宮城県警が体育館を遺体安置所にするため来校。会場設営のため、東松島市と県警から職員が来校。自衛隊、消防、警察の車両に加えて、家族の安否確認に来る人々の車両で混雑。検視官の休憩場所として普通教室を開放。県から災害復旧緊急車両の証明書が発行されたが、ガソリン不足で十分に活用できない。最大で約700人の遺体の仮安置所・検視所となる。保護者が来校し「息子が西高に帰ってきました。体育館にいます」と報告。学校は生と死の境界がなくなり精神的にどんどん追いつめられる。【教職員宿泊14名、避難者数約300余名】

 

 この大震災で同校では在校生9人、翌年度からの新入生2人の11人が犠牲となっている。齋藤氏をはじめ、教職員は避難所を運営しながら、何度も教え子の死と向き合わなければならなかった。齋藤氏は「生徒が亡くなったという訃報も届くし、親御さんが来ると涙は止まらなくなった。でも、避難所では子供たちの笑顔に支えられた。子供たちの笑顔は大人の感情を抑止する力があった。涙も笑顔も枯れることはない」と回顧する。

避難所運営を考えるワークショップ

 齋藤氏は震災の翌年12年に同校校長に昇任し、15年に退職。その後は防災教育を切り口とした命の教育の大切さを広めるため、全国の学校や自治体で講演活動や避難所運営についてのワークショップを開催している。

 ワークショップでは、大人と子供に分かれてグループをつくり、避難所運営図について考えてもらっている。そうすると、大人のグループと子供のグループでは、まったく違う組織運営図案が出てくるそうだ。

 まず、大人のグループでは、8割以上が縦割りの組織運営図を考える。しかし、子供たちのグループでは、ほとんどがくもの巣型の組織運営図を考えるそうだ。齋藤氏は「一番大変な災害直後の混乱期は、子供たちが考えるようなくもの巣型の組織運営が必要になってくる」と指摘する。

 くもの巣型の場合、それぞれの顔が見える形で、スピード感を持ってさまざまなことを判断していけるという。「子供たちはまだ社会に出ていないので、肩書など考えない。だから、大事なものを真ん中に持ってくる。子供たちは今、必要な役割を必要に応じてつくっていけばいいと考えている。役割意識が強いのが子供で、役職意識が強いのが大人だと言える」と分析する。

 講演活動などにおいて、自治体や学校の担当者からは「正しい避難所運営のマニュアルを教えてほしい」と求められるそうだ。しかし、「避難所運営に正解などない。東日本大震災当時、300以上の避難所があり、その数だけ運営の仕方があった。まず、最初のスピード感を要求される1週間ほどは、くもの巣型の組織運営で動く。そうしているうちに、縦割り型の組織が出来上がっていき、運営が安定していく。この流れさえ知っておけば、それがその避難所運営の“成解”になっていく」とアドバイスを送る。

災害は「さよならのない別れ」を生む

「災害大国の日本では、命と向き合う教育を真ん中にするべきではないか」と語る齋藤氏
「災害大国の日本では、命と向き合う教育を真ん中にするべきではないか」と語る齋藤氏

 「東日本大震災から12年、阪神淡路大震災から28年などと、人々は震災のことを過去のこととして捉えている」と齋藤氏は指摘する。

 「子供たちは常に災害と災害の間を生きている。過去のものとして防災教育を学んでいてはいけない。私は防災教育とは、命と向き合う教育だと思っている。災害大国の日本は、命と向き合う教育を真ん中に置くべきではないか」

 日々、活動を続ける中で、齋藤氏は教員に対して「災害においては、『さよならのない別れ』がある」ことを伝えたいという。東日本大震災の行方不明者は、12年たった今も1000人を超えている。齋藤氏が担任をした生徒も、いまだに行方不明のままだ。映画『有り、触れた、未来』でも、この「さよならのない別れ」を経験した中学生少女とその父親の苦悩が描かれている。また、「コロナ禍においても、最後のみとりができないといった別れを経験した子供たちもいるだろう」と指摘する。

 震災当時、そうした経験をした子供たちとどのように向き合ってきたのか。齋藤氏は「向き合うというよりも、まるごとその子に寄り添う、と言ったほうがいいだろうか。あいまいな喪失というのは、解決できない。だからそれをまるごと受け入れることが大事なのではないか」と話す。

 「生徒が相談してきた時、何か抱えている時には、例えば『先生、次の授業があるから』などと、切らないでほしい。切ってしまえば、その子はもう二度と来なくなる。予定があったとしても、『じゃあ、続きは今日の放課後にしようか?』とつないであげてほしい」と教員へメッセージを送った。

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