新型コロナウイルスが5類に引き下げられてから初めて迎える夏休み。これまで控えていた海辺のレジャーを計画している家庭も多いのではないだろうか。しかし、そこで懸念されるのが水難事故の増加だ。コロナ禍で学校の水泳指導が少なかったこともあり、子どもたちも水に慣れていないことが考えられる。長年水泳指導に携わってきた慶應義塾幼稚舎の藤本秀樹教諭は、溺れたときでも、顔を水面から上げた状態を維持できる「立ち泳ぎ」の普及に力を入れている。藤本教諭は「学校の水泳指導では、速く泳ぐことよりも命を守るすべを身に付ける方が重要」と、学校の水泳指導での導入を呼び掛ける。
警察庁の統計によると、昨年7~8月の水難発生件数は459件で、昨年より8件増加。水難者も638人と、73人増えている。藤本教諭は「日本は今や水泳大国ではなく水難大国だ」と警鐘を鳴らす。こうした状況を受けて藤本教諭はYMCAや一部の市区町村教育委員会などと協力し、子どもの水難事故の予防や対策をまとめた「Water Safetyハンドブック2023」を作成。全国の小学校などに配布した。
水難事故にあったときにとっさに身を守るためのすべとして、ハンドブックでも詳しく解説しているのが「浮き身」の姿勢だ。突然水に落ちたとき、パニックになっていたずらに体を動かしたり、クロールなどの一般的な泳ぎ方をしようとしたりすると、かえって危険が高まるため、まずは落ち着いて背中を水面に付けてじっとする「背浮き」の姿勢で待つことが重要になるという。
マリンレジャーを楽しむ際にライフジャケットの着用が徹底されるようになり、ライフセーバーが配置される海水浴場なども増えてきたものの、水難事故はいつどこで起きるか分からない。「水難事故に関する知識を得ておくだけでも、助かる可能性が大きく変わる。大規模水害も増えている中で、防災教育の一環として学んでもらえたら」と藤本教諭。こうした「Water Safety」への意識や取り組みは、米国などと比べると日本は遅れているという。
水難事故から子どもの命を守る。その鍵を握るのが、「体育」で行われる水泳指導だ。現在でも多くの学校では、水泳指導の一環で、服を着たままプールに入る着衣泳が行われているが、藤本教諭はこの着衣泳と合わせて、「立ち泳ぎ」の習得を推奨する。
コロナ禍で水泳指導が中止されている事態を受けて、藤本教諭は慶應義塾大学体育研究所の鳥海崇准教授と共同で、2020年に安全水泳のための動画教材を作成。服を着た状態での「立ち泳ぎ」の動きや助けを求めるサインの出し方などをスモールステップで紹介している。動画には水中カメラの映像も入っており、水の上からは見えにくい足の動きもよく分かる。藤本教諭の研究によれば、もしプール指導ができない場合でも、映像を繰り返し見ながら、実際に溺れた場面を想像するイメージトレーニングを積めば、実際にプールで練習したときと同程度の効果を得られるという。
しかし、クロールや平泳ぎと違ってあまりなじみのない「立ち泳ぎ」を、小学生でも習得できるのだろうか。
それを実証しているのが、慶應義塾幼稚舎の「新水泳検定」だ。同校はもともと、経済学者で1933年から46年まで慶應義塾長を務めた小泉信三が掲げた「塾生皆泳」の考えに基づき、伝統的に水泳指導に力を入れてきた。特に着衣泳は1990年代から取り組むなど、水難事故防止のための水泳指導を心掛けてきたが、一方で藤本教諭らは、水泳としての競技力を重視した評価の在り方に疑問も抱いていた。
そこで、藤本教諭を中心に同校では19年度から、サバイバル水泳を中心に据えた水泳指導にカリキュラムを大きく見直し。安全水泳を目的とした水泳授業を小学3年生から取り組み始めることにした。
「スイミングスクールでは習えない泳ぎ方なので、子どもたちも興味を持ってくれる。4年生になるとできるようになる子が表れ、6年生では『立ち泳ぎ』の習得が学年の目標に位置付けられている。そして、6年生では実際に海で立ち泳ぎをする日帰り実習があり、一貫したカリキュラムになっている」と藤本教諭。「水難事故のほとんどが海と川で起きている。いかに泳力を事故防止につなげるか。学校の水泳指導では、速く泳ぐことよりも命を守るすべを身に付ける方が重要ではないか」と強調し、日本の水泳指導の在り方に一石を投じる。