中教審特別部会が8月末、学校の働き方改革などについて緊急提言を出したことは、すでに本紙電子版で報じられたとおりだ。これを受けて文科省は9月8日、取り組みの徹底を求める通知を全国の教育委員会等に発出している。
私はこうした動きに大きな危機感を抱いている。それは、国や教育委員会が主導して働き方改革を進めようとすればするほど、現場教員の「自律する力」が失われていくからだ。
学校における働き方改革答申では、学校業務を「基本的には学校以外が担うべき業務」「学校の業務だが、必ずしも教師が担う必要のない業務」「教師の業務だが、負担軽減が可能な業務」の3つに整理した。こうしたマニュアルに沿って行事を減らし、部活動をなくし、決められた時間だけ働く――。それで全ての子どもが安心して学べ、育つ学校がつくれるだろうか。
そもそも学校の働き方改革の目的とは何か。「教員の勤務時間を減らす」「教員の負担を軽くする」といったことだろうか。もちろんそれは大切なことだが、手段であって目的ではない。重要なのは、「先生ってこんなに夢があって楽しい、いい仕事だ」と、日本社会に位置付けることにある。そのために厚労省や文科省から「働き方改革」という言葉が生まれてきたはずだ。
ところが実際に進められているのは、「学校はこれをやめろ」「教員はこうしろ」といった指示の下、マニュアルという名のスーツケースに全ての教員を押し込めるようなやり方だ。これでは、いわゆるブラック企業と何ら変わりはない。
一斉に「皆、同じことをやれ」という画一的な進め方が、残念な学校現場をつくってしまっているのではないか。学校の働き方改革は2019年からスタートしたというのに、4年たってまだ「緊急提言」が出されるような状況にあるというのは、前提そのものが間違っているからだろう。今は負のスパイラルに陥ってしまっている。働き方改革そのものを問い直すべきときなのだ。
では、学校現場はどうあるべきか。私は、教員一人一人の「自律する力」に委ねるべきだと考えている。「自律する力」は今、全ての子どもに必要な学力の上位目標とされている。この「自律する力」は、教員も持つべきだ。すなわち、自分で考え行動する。おかしいと思っていることをやらされるのではなく、やるべきことを判断する。うまくいかなかったら自分でやり直し、人のせいにしない。それでこそ、教員一人一人が個々に持っている本質的な魅力が発揮できるようになり、教員が働くことの楽しさを子どもが感じ取るようになるだろう。
学校業務の何を削減するかも、教員の「自律する力」に委ねるべきだ。学習権を保障し、誰一人取り残さない学校にすることを最上位の目的にするという共通認識を持った上で、目の前にいる子どもを見て、「最上位の目的につながらない」と現場で判断したものは、全教職員の合意の下で捨てていけばいい。そして、「必要だ」と判断したものは、学校以外の力も活用しながら、全力で進めていけばいいだろう。
つくるべきなのは、全ての子が安心して学べて、かつ全ての教員が安心して学校づくりできる環境だ。そのためには、学校づくりの責任を持つ立場にある校長が、目の前にいる子どもを「一生懸命育てなさい」と指示するのではなく、子どもが300人いれば300通りある育ちを保障し、その育ちを教員が支えられる学校づくりができる、「自律」した校長になる必要がある。
教員の仕事に就いたからには、誰しもが「おはよう」と学校に来て安心して学び、「さよなら」と帰っていく子どもの姿を見て共有したいと考えるだろう。そんな学校なら、退勤が17時以降になったからと言って「働き方改革だ」なんて言わない。もちろん、教員たるもの不満や愚痴を言いたくなることは山ほどあるだろうが、「先生が辞めてしまう」「先生が死んでしまう」という学校にはならないのではないか。
そういった「教員が自律できる学校」のシステムを新たにつくっていけば、「働き方改革」と言う言葉は、そもそも必要がないから生まれてこない。「いじめ」「不登校」「自殺した子どもの数が過去最多」などという取り返しのつかない子どもの事実も、生まれてこないだろう。