ロシア軍によるウクライナへの侵攻が始まってから間もなく2年を迎える。記憶の定着に特化したオンライン学習プラットフォーム「Monoxer」を学校や学習塾などに提供するモノグサでは、この間、日本に避難してきたウクライナの人々にとって高いハードルである日本語習得の支援プロジェクトに取り組んできた。そのプロジェクトで中心的な役割を担ったのが、来日後に同社にインターンとして入ったウクライナ国立航空大学の学生、マクシム・ハイチェンコさん(通称、マックスさん)だ。今も各地で戦闘が続くウクライナだが、マックスさんはいつか、ICTでウクライナの教育を支えることを夢見ている。
ウクライナ危機が深刻化し、日本にも多くのウクライナ人が避難してきた2022年7月、モノグサではいち早く、「Monoxer」で日常的に使う言葉をウクライナ語と日本語の相互に変換した問題集(「Monoxer」では「book」と呼ぶ)を公開した。「記憶のためのプラットフォーム」である「Monoxer」を提供している同社として、ウクライナからやってくる人たちに「何かできないか」という声が社内で高まったのがきっかけだった。
しかし、これはあくまで簡易的なもので、より当事者のニーズをくんだコンテンツに発展させる必要があったが、当時の同社にはウクライナ語に精通した人材がいなかった。そこで、この最初の問題集をつくった際につながることのできた難民支援の団体「パスウェイズ・ジャパン」を通じて求人を出し、インターンとして採用されたのが、日本に避難していたマックスさんだった。
マックスさんは中学生の頃に日本のアニメ作品である「ダーリン・イン・ザ・フランキス」を見て衝撃を受け、字幕なしで作品を見たいという動機から、日本語が堪能なウクライナ人から日本語を習っていた。ウクライナ国立航空大学に入学後にロシア軍が侵攻を開始し、国外への単身での避難を考える中で、マックスさんは「挑戦するなら日本で」と決断。当時アルバイトをしていたコーヒーショップでは送別会が開かれ、オーナーからは「君は若くて頭がいい。君の代わりに戦える人はいる」と言葉を掛けられたそうだ。それを聞いてマックスさんは「日本で何かを学んで、平和が訪れた後に、ウクライナに戻って活躍してほしい」という思いを託されたのだと直感した。そのオーナーは今、前線で戦っている。
モノグサでマックスさんが早速取り掛かったのが、日本語習得のための問題づくりだ。モノグサでは教師などが学習者に覚えてもらいたい課題を用意することができる。この機能を活用し、平仮名、片仮名、漢字をなぞって覚えるトレーニングから、ヒントなしで語彙(ごい)を答える問題まで、レベル別の問題をどんどんつくっていった。その数はこれまでに5643問、63bookに上る。日本のコミュニケーションに関する文化を学べるものや買い物などで使える日本語に始まり、現在では、日本語を母語としていない外国人が、日常的な場面で使える日本語の理解だけでなく、より幅広い場面で使われる日本語をある程度理解できていると認められる日本語能力試験N2レベルまで対応しつつある。
「日本語をウクライナの人にとって意味の分かるように訳すのは簡単ではない。中には、ウクライナ語では訳せないような日本語もある。例えば『お疲れさまです』は、そのまま訳しても意味が伝わらない。『book』には、どういうときに使うかや、間違いやすい場面といった解説も入れている」とマックスさん。「Monoxer」でつくった問題の中には、発音を確認することができたり、正しい日本語になるように単語を入れ替える問題も入れたりしているが、日本語独特の文法を学ぶ問題の開発には、まだ課題が残っているという。
マックスさんのつくった問題に取り組むウクライナ人は、日本で住んでいる地域も年齢もさまざまだが、同じウクライナ人でも日本語の習得でつまずくところは千差万別で、文法はすぐに身に付けられたのに、漢字や語彙(ごい)を覚えるのに苦労する人もいれば、多種多様な漢字に興味を持ち、文字を覚えることには意欲的でも、文法は難しいと感じる人もいるそうだ。
マックスさんは、日本語習得の壁は日本語の持つ多様性にあると指摘する。場面や相手によって同じ意味の言葉でも使い分けなければならない。その多様性は同時に、ヨーロッパの言語には見られない日本語の美しさでもあると感じている。
問題づくりが軌道に乗ると、マックスさんはウクライナから避難した人の日本語習得をさらにサポートしようと、日本語能力試験に挑戦する意欲がある人を対象にしたオンラインの講座を開いた。全国から約50人が参加を希望し、昨年は少なくとも15人が日本語能力試験で挑戦した各レベルに見事合格している。マックスさん自身も、来日直後は、日常的な場面で使われる日本語をある程度理解できるとされるN3レベルだったのが、非日本語話者にとっては高度な、幅広い場面で使われる日本語を理解できるN1レベルに合格するほどに上達した。
「フィードバックを聞くたびにやりがいを感じる。学習者の中には、『Monoxer』で自分の問題をつくっているという声もあって、私の教材を使っていることよりもうれしい。なぜならば、自分が一番勉強したいことを勉強しているから」(マックスさん)
日本に来てから1年半が過ぎ、日本語の習得以外で避難してきた人からマックスさんに寄せられる相談も変わってきた。最初の頃はクレジットカードや銀行口座の手続きなどが多かったが、最近は日本での進学や就職に関することが増えた。
「コンビニで買い物をするといった日常生活で必要な会話はすぐに覚えられるけれど、大学に行って勉強するためには、より幅広い日本語の勉強が必要。日本語能力試験で高いレベルに合格していても、学生同士のスラングも混じった会話まで理解できるとは限らない。だから、日本人の学生と深く理解し合い、友達になれるか、不安な気持ちになっている人は多い」(マックスさん)
大学でサイバーセキュリティを専攻するマックスさんは、オンラインで大学の授業を受けながら、モノグサでインターンとして広報の業務や日本語習得の問題作成にいそしんでいる。今や同社にとっても欠くことのできない存在、「全人類に届けるのを諦めない」という同社が掲げるバリューを共有する仕事仲間だ。
「子どもの頃は俳優や声優に憧れていたけれど、モノグサで働くうちにビジネスのやりがいを感じるようになった。大学を卒業してからも、モノグサで働きたい。ウクライナでは今もミサイルが飛んでいる地域があり、学校に通えずにオンラインで学んでいる人がとても多い。そこで『Monoxer』を活用できれば、教師のサポートにもなる。ウクライナの教育はデジタル化が進んでいて、子どもたちもICTは大好き。いつかウクライナに『Monoxer』を届けたい」
日本で学んだことを胸に、マックスさんはそんな夢を思い描いている。