「社会に開かれた教育課程」という理念が、現行学習指導要領が目指すべき方向性を決したことに、疑いの余地はない。「生きて働かない」学力から脱却し、個人と社会のウェルビーイングの実現に寄与する学力としての資質・能力の育成に専心すべきだという結論が、そこから導かれた。ただ、気になるのは「社会に開かれた」がどのような意味として理解されているかである。それにより、資質・能力の中身も大いに変わってくる。
学校教育と社会の関係を巡っては2つの考え方があると、教育学では整理してきた。
一つは、その時代の社会が要請する人材を過不足なく適切に供給できるよう、社会の変化に遅れることなく、しっかりと付いて行くのが学校教育の任務であるという考え方であり、社会的効率主義と呼ばれる。
これは、当事者におけるその意図の有無や自覚にかかわらず、結果的に現状の社会秩序や政治・経済体制の安定化と再生産に奉仕し、これを強化する方向で学校がその機能を発揮することを意味する。そして、現状の社会秩序や政治・経済体制が常に望ましい保障はない。仮に重大な問題を抱える社会への適応や従属を教育の名の下に子どもに強いたならば、それは非教育的であり、子どもへの裏切りである。戦前の日本やナチスドイツの教育を例に出すまでもなく、そのような可能性は歴史上何度となく現実のものとなり、そのたびに多くの子どもを不幸に陥れてきた。
ここに、学校教育と社会の関係に関する、もう一つの考え方が生まれる契機がある。教え・育てた子どもたちが次世代の社会を主体として創出するという筋道を介して、学校教育は社会の変化を先導して生み出すという考え方であり、社会改造主義と呼ばれる。
社会的効率主義と社会改造主義の違いは、教育は社会の変化に付いて行くのか、社会の変化を生み出すのか、という立場性の違いにまで敷衍(ふえん)することが可能である。それは、学校教育の機能や任務の根幹に関わる大問題である。
同じ地域社会を探究課題とした総合的な学習であっても、社会改造主義の立場に立つならば、子どもの素朴な疑問から発した探究が、さまざまな「大人の事情」や不都合な事実に行き当たったとしても、そのありのままを直視し、公正な立場からの多面的で批判的な検討を経て、その解決にまで挑む学習を組織することになるだろう。一方、社会的効率主義の立場であれば、もっぱら地域の「よさ」や人々の「頑張り」に注目し、問題についても表面をなでる程度にとどめ、子どもたちなりの解決策を一つでも提案できれば、ほとんど実効性がなくともそれで一件落着にしてしまうに違いない。
現行学習指導要領ではどうなっているのか。「社会に開かれた教育課程」については、全ての学校種の学習指導要領の前文に、以下のような説明がある。
「教育課程を通して、これからの時代に求められる教育を実現していくためには、よりよい学校教育を通してよりよい社会を創るという理念を学校と社会とが共有し、それぞれの学校において、必要な学習内容をどのように学び、どのような資質・能力を身に付けられるようにするのかを教育課程において明確にしながら、社会との連携及び協働によりその実現を図っていくという、社会に開かれた教育課程の実現が重要となる」
まず、注目すべきは「よりよい学校教育を通してよりよい社会を創る」という表現であろう。ここには、社会改造主義的な考え方の反映が明確に読み取れる。少なくとも、学校教育が果たすべき機能を、社会の変化に遅れることなく追従し、あるいは、もっぱら社会的要請に応えるというふうに捉えたのでは不十分だと言えよう。
加えて、そのような「理念を学校と社会とが共有」することが重要であり、教育課程についても、学校と「社会との連携及び協働によりその実現を図っていく」という在り方が提起されていることにも注目したい。
過去には、子どもの教育を巡って、学校と社会が主導権争いをして対立したこともあった。しかし、物事の不確実性が高く、将来の予測が困難なVUCAの時代においては、学校も社会も「正解」を持ち合わせてはいない。両者が真摯(しんし)な対話を重ね、理念を共有し、連携と協働によってその実現に汗を流すしかないのである。
そこでは、望ましい社会の在り方を模索し続けるとともに、しっかりと子どもを見つめ、その内なる求めに応じて育て上げていくことが求められる。なぜなら、子どもの健全な成長こそが、次世代の社会を健全なものとする最大の力だからである。その意味で「社会に開かれた教育課程」とは、同時に「子どもに開かれた教育課程」でもあり、そこにおいてこそ真の共有や連携及び協働が実現できると理解すべきであろう。