人間の「学び」を巡って学習に関する近年の科学的研究が明らかにしてきた第3の洞察は、学びの意味を自覚化し、整理・統合する必要がある、というものである。
状況的学習が示す通り、学びは領域固有で状況に依存しているので、多くの場合、子どもは今日の学びを今日の教材や問題場面との関係でのみ把握して終わる。しかし、それでは領域や場面を超えて知識を活用し、創造的な問題解決を成し遂げることはできない。学びを今日の文脈から解き放ち、自由に動けるようにしてやる必要があるのである。
例えば、理科の振り子の実験でおもりが1往復する時間を計る時、「どんな工夫が必要かな」と問えば、さまざまに試してみる中で、子どもたちは「何度も計って平均値を取ればよさそうだ」と気付く。しかし、この段階では、いまだ振り子という具体的な対象や状況との関わりでの気付きにとどまっており、誤差の処理という抽象的な概念的意味理解にまでは到達していない。
実際、授業の最後に「どうして今日の実験では何度も計っていたの」と尋ねると、子どもたちは「理科の実験では正確なデータを得るためにいつもそうしているから」などと答える。ここで、「そうかなあ。この前の検流計の時には何度も計ったりはしていなかったよ」と切り返してやれば、子どもは「だって、検流計はピタリと針が止まるから。ああ、そうか、同じ実験でもいろいろな場合があるんだ」とようやく気付く。
この発見を契機に、これまでの実験や観察の経験を総ざらいで整理し、それぞれの工夫を比較しながら、その意味を丁寧に確認する授業を実施する。そして、整理の中で見えてきた科学的探究を構成するいくつかの鍵概念について、子どもたちが自在に操れるよう「条件制御」「系統的な観察」「誤差の処理」などの言語ラベルを付与する。さらに、それらの鍵概念を用いて新たな実験や観察について思考を巡らせる機会を適宜設ける。このような段階的で明示的(explicitあるいはinformed)な指導により、子どもたちは次第に科学の方法論やその背後にある論理を深く理解するようになっていく。
いかに科学的な原理にのっとった実験や観察であっても、単に数多く経験しただけでは、科学とは何かを理解し、またその方法論を身に付け自在に繰り出せるようになるには、なお不十分である。さらに、表面的には大いに異なる複数の学習経験を相互に関連付け、比較検討し、俯瞰的に眺め、そこに共通性と独自性を見いだすことで、統合的な概念的意味理解へといざなう必要がある。
学習経験を俯瞰し、整理・統合する明示的な指導は、国語科でも有効である。例えば、5年生の学年はじめに4年生までの教科書を全部持ってこさせ、全ての説明文教材について、そこで何を学んだかを問う。すると多くの場合、子どもは「たんぽぽの知恵」「ビーバーの大工事」などと言う。学びが教材文という文脈に貼り付いているのである。
そこで、それら題材や対象のことはいったん脇に置いて、純粋に形式的な意味でどのような読解の着眼や方略を学んだかを確認していく。少し時間はかかるが、徐々に「問いと答えの応答関係」「具体例を挙げる順序」「列挙や対比など具体例同士の関係」「事実と意見の書き分け」といったことが子どもなりの表現で想起されてくるから、これらを短冊状の紙に書き出し、見やすい場所に掲示する。そして、それらを適宜参照しながら5年生の説明文教材を読む。すると、当然のことながら、不思議なくらいスラスラと読める。
と同時に、「こんな書きぶりは初めてだ」という箇所にもすぐに目が留まる。それこそが、この教材を通して5年生で新たに学ぶ内容であるから、なぜそのような書きぶりをしているのか、学びを深めていけばよいだろう。
当然のことながら、述べてきたような授業を展開するには、指導する教師の側において、明示的な指導の対象となるべき内容に関する系統的な押さえが不可欠である。しかし、困ったことに、これが非常に心もとない。残念ながら、教師が「たんぽぽの3つの知恵」を教えようと懸命になっているような授業がまだまだ横行している。
まずは、教科の内容そのものと、それを教えるための手段である教材とを明確に区別したい。その上で、学年や学校段階をも越えた、教科内容の縦の系統の把握に努めたい。
今、学校と教師に切実に求められているのは、教材研究ではなく、教科内容研究である。そして、これを推し進めていくと、各教科等の「見方・考え方」に行き着く。次回は、このことを考えたい。