「5…4…3…2…1…!」
子どもたち全員が校舎前に集まって、カウントダウンとともにカバンを投げる。これはある小学校で年度末の恒例行事となっている。私たち家族が住むオランダでは近隣国と同様、7月中に年度末を迎え、9月から新学期が始まる。「Fijne vakantie!(楽しい夏休みを!)」と声を掛け合って去っていくクラスメートと保護者、そして教職員たち。ここから約1カ月半、長く、明るい夏休みの始まりに心を躍らせる人たちの表情には自然と笑みがこぼれている。
九州と同じくらいの国土面積に約1800万人程度の人々が暮らすオランダでは「休暇を休暇として過ごす」というバケーション文化が根付いていると言えるだろう。ワークライフバランスが取れたこの国では、この時期にまとまった休暇を取る人たちも多い。同時に、国外からの観光客も増えるという理由から、政府は混雑を緩和するために国内の地域を3つに分け、夏休みの時期の始まりを次のように1週間ずつずらしている(日程は2024年のケース)。
・南部エリア(7月6日~8月18日)
・中部エリア(7月13日~8月25日)
・北部エリア(7月20日~9月1日)
日本では、特定の長期休暇には「Uターンラッシュ」に代表される混雑の様子がたびたびニュースなどで取り上げられるが、実際はそのような状況にへきえきしている人たちも多いのではないだろうか。
実のところ、地域別に休暇の時期をずらす国はオランダだけではなく、お隣のドイツやフランスも同様だ。理由には、高速道路や空港などの混雑緩和だけにとどまらず、レジャー施設や宿泊施設などにおける経済の活性化なども挙げられる。「夏休みを満喫したいけれど、混んでいるのは嫌」という人々の考え方に、制度は柔軟さを持って寄り添っているとも言える。
さて筆者自身、かつての日本での教員生活を振り返ってみると、長期休暇中であれ、校務分掌の業務や教材づくり、(中等教育以降の場合)部活動などにいそしむ教職員の姿が当然のようにあったことを思い出す。当時、管理職から提出を求められた「動静表」には、「いつ」「だれが」「どのような理由で」出勤、もしくは出勤していないかという情報が、校務処理上で全教職員に閲覧・共有されていた。
自治体や学校によっては休暇中の旅行先情報や緊急連絡先なども知らせる必要がある。これは、(教育)公務員が大規模災害時に、学校を避難所とする支援作業に従事しなければいけないという理由も大きい。
そのような管理下に置かれた日本の教育公務員に比べると、オランダの教職員が置かれた状況は大きく異なることが分かる。
学校年度のうち、約100日間が祝日や休暇に当たるこの国では、夏休みをはじめ春休みや冬休みといった長期休暇中に、教職員が学校に出勤することはまずない。校舎内は静まり返り、学童や公共スポーツ施設が併設されているなどの特別な理由がない限り、校舎に人の気配さえ感じられないことも多い。
そして、彼らには動静表もない。どこでどのような休暇を過ごそうが、完全に自由なのだ。学校教職員に限らず、社会一般的に休暇中の担当者メールを送ると「現在、休暇中です。返信は○月○日以降になります」という自動返信が届くのも一般的だ。
動静表がないと聞くと、同様に給与も発生しないのではと思われるかもしれないが、給与と賞与は休暇期間中も発生している。オランダの教職員のウェルビーイングが支えられる一つの要因は、この休暇制度にあるとも言えるだろう。彼らは1年間、児童生徒の教育活動に従事してきた「ご褒美」として、誰にも邪魔されない休暇を得る。そしてそのご褒美はまた、新しく始まる日々をフレッシュな気持ちで歩み出すために必要なものだと考えられている。
一方で、オランダの教職員の給与は社会的に見ても決して高いとは言えない。しかし、「年間約100日間の休暇」という待遇や「教育に従事するやりがい」に魅力を感じる人々が、教職というフィールドで活躍しているのも事実である。
児童生徒と同じように休暇に入るオランダの教職員たち。しかし、もちろん年度末と新年度のはざまで、業務が全くないというわけではない。それでも、学校に出勤する必要がないのはなぜか。そこには、非常に整ったICT環境があると言えるだろう。
私の日常を例に話そう。現地小学校で英語教員として勤務する私の仕事は、おおよそ自前のラップトップ(ノートパソコン)で完結する。勤務日以外の時間でも、ラップトップとインターネット環境さえあれば教材準備ができるため、作成した教材を勤務校のオンラインプラットフォームにアップロードしたところで仕事はいったん完了する。あとは授業の際に、教室に備え付けられたデスクトップパソコンでログインし、接続先のデジタル黒板に映し出せば、児童生徒がスライドや動画などを見ることができる。
こういった仕組みは私の勤務校に限ったことではなく、おおよそオランダ全土の教職員たちが活用しているものだ。また、教材やこまごまとした学校資料にアクセスできるプラットフォームとは別に、成績や生徒の個人情報に関わるデータにアクセスできるオンラインプラットフォームもある。そちらはオランダの企業によって開発されたもので、セキュリティー面でも安心して使うことができる。
個人的な感覚としては、初等教育に携わる教職員は自宅で自らのパソコンなどからオンラインのプラットフォームにアクセスしている場合が多い一方で、中等教育に携わる教職員は、あらかじめセットアップされたラップトップを1人1台貸与されていることが多く、そこから校務処理にアクセスしているようだ。いずれにせよ、どちらの場合もインターネット回線さえあれば、教職員はわざわざ学校に出勤する必要はなく、場所を選ばず仕事ができるようになっている。
そして、このような環境と相性が良いのがオランダに深く根付いている「シェア文化」だ。シェアリングエコノミーやワークシェアリングという言葉がなじむ社会では「共有すること」へのハードルは低く、「Sharing is caring(シェアすることは、思いやること)」というのは、勤務校の校長がよく口にするフレーズでもある。
オランダの学校の中には1つの大きな校舎を2つの学校でシェアしたり、体育館などを近くの別の小学校と共同利用したりしているところも多い。このようにして、ソフト面からハード面まで、学校現場にもまた「シェア」という文化がなじんでいる。「良いものは共有する」という合意のもと、教職員たちは自作の教材や見つけてきた情報をどんどん共有して取り入れることで、年度末の時期でも翌年度に向けて常に業務の軽減を図っている。
また、クラス替えがほとんどない小学校が多いことも業務が軽減される一つの要素だ。これはオランダに限らず、視察先のフィンランドでも同じだった。クラス替えがないことで、児童のあらゆるデータはそのまま次の学年へと引き継ぐことができる。このようにして、児童にまつわる情報がポートフォリオ的に蓄積、引き継がれていくという特徴があり、最終的には国のデータ収集にも役立っている。
さらに、日本の学校現場では「あらゆる学年を教えられること」、いわゆる「ジェネラリスト」に価値が置かれやすいが、こちらは逆だ。「どの学年を教えたいか」という意向や、ペアとなる担任の希望もまた尊重される。教職員のモチベーションや、資質が開花される環境を適切に設定することへのこだわりがあり、それなくして、より良い教育活動は遂行されないという考え方が垣間見える。そして、それをうまく調整するのが管理職の役割とされている。
このようにして、クラス替えがないことや教員の学年固定をすることは、オランダに根付いた「シェア」という文化と相性が良く、個々が専門性を尖らせていくための材料として評価されている。
このようにして、公教育に携わるオランダの教職員は、休暇を休暇として過ごすことによって、慌ただしく過ぎていく年度の途中で、ゆっくりと深呼吸する機会を得ている。そして、それを享受することが新しいひらめきや、仕事に対するモチベーションにつながっていると言っても過言ではないだろう。教員とは子どもたちのために何もかもを犠牲に出来る人たちを指すのではない。教職員こそが心身ともに健康であることは、児童生徒がそうであるためにも必要なことだと人々は考える。
子どもたちは大切だ、それに変わりはない。しかし、その周囲にいるあらゆる大人たちのウェルビーイングなしに、子どもたちを本当の意味で大切にすることは難しいだろう。私たちに求められるのは子どもたちを幸せにする方法ではなく、子どもも大人もウィン・ウィンに、幸せになるための新たな方法ではないだろうか。その第一歩を踏み出す時、オランダはヒントをくれるかもしれない。「きちんと休み、けじめをつけて働く方が仕事の効率は上がるし、あなた自身も心身ともに健康になるよ」と。
【プロフィール】
三島菜央(みしま・なお) オランダ在住、元公立高校英語教諭。教員としてのキャリアと子育ての両立に苦労する中で、「世界一子どもが幸福な国」で教育と社会がどのように関わり合っているのかに興味を持ち、2019年に家族でオランダへ移住。現地小学校で英語教員として働きながら、教育関係者向けの学校視察ツアーのコーディネートなどを行う。視察やインタビュー、ボランティア活動を通して見えるオランダの社会と教育について発信中。