子どもの挑戦的な営みを支援する教師(奈須正裕)

子どもの挑戦的な営みを支援する教師(奈須正裕)
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事例との出合いを計画する

 概念の形成・更新には、典型事例、非典型事例、紛らわしい事例の3つが必要であり、どんな事例とどう出合わせるかの計画が授業づくりのポイントになる。こう書くと難しく感じるかもしれないが、通常の授業や教材開発でも、この原理は用いられている。

 例えば、道徳の授業。子どもたちは「友情」といった概念をすでに形成してはいるが、それは多くの場合、「友達のことを考えて、その子が望むことをしてあげる」といったものである。そこで「友達には耳の痛いことだが、長い目でみればその子のためになると思うことをあえて言う」といった登場人物の判断なり、行動を含む物語を提示する。これは、友達同士の関わりの中でもそうそう日常的に生じる出来事ではないし、下される判断の中身から見ても、非典型事例の一つと言えるだろう。

 さらに紛らわしい事例として「耳の痛い忠告などしてしまうと、友達との関係が気まずくなりかねない。だから、目をつぶって何も言わない」という選択肢も提示し、自分ならいずれを選ぶか、それはなぜかを考えさせるといった具合である。

 このように、明確な意図を持って提示された3つの選択肢について思いを巡らせ、仲間と共にあれこれ議論する中で、子どもたちは「友情」という概念を、より普遍性のある、道徳的に価値の高いものへと修正・更新していく。

 もちろん、物語の登場人物の判断や行動として、あるいは教師が直接的な問い掛けとして提示する以外にも、仲間の率直な意見や経験の回想が、思いがけずある子どもにとって非典型事例や紛らわしい事例として機能することもあるし、その方が授業としては望ましいかもしれない。

非典型事例で学びを深める

 すでに一定の意味理解に到達している場合にも、非典型事例との出合いは、学びをさらに深める契機となる。例えば「チューリップに種はできるか」と尋ねると、大人でも「できない」と答える人が少なくない。チューリップも種子植物なので種はできるし、誰しも中学校の理科で勉強はしたはずなのに、かなりの人がそう判断するのである。

 「種子植物の勉強は覚えています。でも、チューリップは球根を植えるでしょう。それなのに種ができるのかしら」

 教科書では、タンポポやアブラナなどの典型事例で種子植物を学ぶ。そこで形成された概念的理解が、球根を植えるチューリップという非典型事例との間で不整合を生じているのである。ならば、この不整合をさらなる学びの契機にしてはどうか。「チューリップにも種ができるのなら、なぜ種ではなく球根を植えるのか」を学習問題にするのである。

 この問いに答えるには、球根について知る必要がある。球根はクローン、親の身体の一部が地中に残ったもので、子である種とは異なる。「土に植える」から同じだと考えたのがそもそもの間違いだったのであり、まずここで種子の概念は修正される。

 では、なぜクローンである球根を植えるのか。最大の理由は園芸上の都合で、ヨーロッパの庭造りなどでは、ここは赤、こちらは黄色と、同色の花をまとめて配置する。色が異なる花の花粉が受粉する可能性のある有性生殖、その結果である種は、この目的には不都合だ。クローンである球根なら、咲く花の色も大きさも正確に予測できる。

 このように学べば「チューリップに種ができる」ことは納得がいく。また、種ができるのは多様な遺伝形質をもつ個体を生み出す生物の仕組みであり、環境適応上の有利さと関係があるとの理解にも無理なく到達するだろう。さらに、こんな疑問も涌いてくる。

 「種以外の増やし方ということなら、挿し木や接ぎ木、種芋はどうか」

 これらもクローンであり、やはり親と同じ特性の植物を効率よく増やしたいからである。さらにここから、植物と動物の違いにも学びを発展できる。植物のクローンはごく普通に存在するし、古くから人間もそれを利用してきた。一方、動物については、一部の例外を除いて自然界にクローンは存在しない。

 このように、非典型事例との出合いは、典型事例を中心に形成された学びを揺さぶり、いっそう深く本質的な理解へといざなう。この連載で繰り返し述べてきたように、知識を教えるとは「白紙」である子どもの心に、大人が価値ある経験やその意味を一方的に書き込むことではない。すでに世界と向かい合い、そこで出合ったさまざまなひと・もの・ことについて、より整合的で包括的な概念の形成を求めてやまない存在である子どもに対し、彼らだけでは難しい部面に的を絞り、その挑戦の営みを支援することなのである。

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