【大相撲から高校教員に】相撲を取りながら夢見た教職の道

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 大相撲九重部屋の千代の海関が、2024年6月に惜しまれながら力士生活に幕を閉じた。本名・濵町明太郎さんが引退後に選んだ職業は高校の保健体育科の教員。同年9月から東京都立足立新田高校で時間講師を務め、10月からは東京都立農産高校で保健体育を週9時間受け持ちながら、7月の東京都の教員採用試験を目指して勉強を続けている。もともと、中学生の頃から教員に憧れていたという濵町さん。大相撲の世界から、改めて教員になりたいと考えたのはなぜか、どこに魅力を感じているのかを聞いた。(全2回)

今は校庭にラインを真っすぐ引くところから

 ――2月2日に断髪式を終えられて間もないですが、今の気持ちは。

 引退した直後の断髪式だったら泣いていたのかもしれませんけれど、昨年6月に引退して半年以上たっていたので、10年伸ばし続けていた髪がなくなって「ああ終わったな」という気持ちでした。

 ――大相撲の力士として10年活躍されましたが、元々は教員を目指していたそうですね。改めて教員になろうと思った経緯は。

 昨年6月に引退して、学校現場で働くようになった9月までの3カ月は、自分のやりたいことをやろうかな、と思っていました。幼い頃から相撲を続けていて、中学時代も寮生活だったので、まとまった休みが本当に、人生で初めてだったのです。学生時代も夏休みなどはありましたし、プロの時も場所と場所の間の休みがありましたけれど、やはり稽古があるし、体のケアもしなければいけない。休み明けには、最初からトップギアで練習がスタートしますから、休みだけれど休みではないような感じだったのです。本当に何もない、体重を増やさなくてもいい、筋トレしなくてもいいという休みは、初めての経験でした。

 現役時代、ちょんまげで出歩くと、「お相撲さんが遊んでいる」と周りから見られていたのですが、そういう視線を気にしなくてよくなったので、この期間はよく人と会っていました。自分が日本体育大学(日体大)出身ということもあり、先輩や後輩、同級生などに学校の先生や指導者が多いので、そういう方々に会って、いろいろな話を聞く機会が多かったですね。「教師はめっちゃ大変だよ」と言われる一方で、生徒の成長を感じてすごくうれしいという話を聞いたりすると、教師をやりたいという気持ちがますます強くなりました。

「学校での勤務は新鮮で楽しい」と語る=撮影:大川原通之
「学校での勤務は新鮮で楽しい」と語る=撮影:大川原通之

 ――昨年9月に学校現場に入られ、10月から現在の東京都立農産高校で働き始めて、約半年ですね。

 現在は保健体育の授業を週9時間担当しています。担任を持ったり、正規の教員としてフルに働いたりすればまた変わってくると思いますが、人との関わりも好きですし、楽しいですね。

 不思議な感覚なのですが、力士は24時間勤務なのです。朝起きてから夜寝るまでずっと自分の体のことを考えて生活している。相撲部屋に住んでいた時は、朝起きて稽古して、ちゃんこを作って、先輩や親方の用事を済ませて、夕方にちゃんこを作って、また先輩や親方の用事をして、本当に寝る時だけが唯一、自分の時間というような生活でした。太れない体質だったので、寝る前にいっぱい食べたり、決まった時間に起きてプロテインを飲んだり、おにぎりを食べたり、24時間働いている感覚でした。ですので、今のように、きっちり時間が決まっていて、その時間でやることをやる生活がすごくうれしいです。食べたいものも食べられるので、リフレッシュできる時間が増えたなと思います。

 今は時間講師以外にもキャリアサポートとして入らせてもらっているので、学校にいる時間も割と長いのですが、先生方と話をするのもすごく勉強になります。言い方が難しいですが、これまでは周りがずっと相撲をしてきた人ばかりだったので、会話も部活動の延長線のような、高校生のような会話ばっかりだったのです。今は大人としゃべるようになったと感じていて、僕には全て新鮮です。

 それこそ体育で、校庭にラインを引くのも、うまくできなくて大変です。先輩の先生方を見ていると、生徒と会話しながら真っすぐ引いているので、すごいなと思います。僕はまだ集中しないと引けないし、それでも真っすぐにならなくて、生徒や先生方には申し訳ないのですが、やらないとできないと思っているので、授業などで経験を積んでいます。そういうところから学んでいます。

 ――授業はどうですか。教育実習も10年以上前になりますよね。

 授業はやっぱり難しいですね。最初は自分が受けた授業のようにやってみようと思ったのですが、自分の中学高校時代とは全く違って一切、通用しないですね。本校は東京都内だということもあると思いますが、今の高校生はみんな頭がいいし、大人だと思います。僕は高知県の田舎出身なので、高校生の時に周りでアルバイトしている人はいませんでした。ところが、保健の授業で労働環境などについて話をした時に、生徒たちがみんなアルバイトでさまざまな経験をしているので、いろいろな話ができる。驚きますね。

 ――地元の高知県ではなくて、東京都で教員になりたいと考えた理由は。

 やっぱり東京都で、と思うところがありました。地元の高知県の方からも、すごく誘っていただいたのですが、高知県に帰って教員の道を目指すとなると、絶対に甘やかされるなと思ったのです。「すごい人が帰ってきた」というふうに見られて。でも、相撲の面に関してはそれなりの自負がありますが、授業に関しては全く経験がないので、全然通用しないじゃないですか。

 そういう意味でも、ゼロからしっかり、他の新人の先生たちと同じ立場でやりたいという気持ちがありました。ほとんどの先生は大学を出て22歳で教員になりますが、僕は10年遅れています。この10年を取り戻すためにはやっぱり、先進的な東京都で教員になる方がいいのではないかなと考えました。

「学校生活を大切にできない者は部活をやる必要はない」

教わった相撲の先生はみな「学業優先」だったという=撮影:大川原通之
教わった相撲の先生はみな「学業優先」だったという=撮影:大川原通之

 ――そもそも相撲を始めたきっかけは。

 地元に少年相撲クラブがあり、兄と仲のいい同級生のお父さんがその相撲クラブの先生だったので、兄が通い始めました。いつも遊んでいた兄が、ある時から夕方になるといなくなるようになったので、ついて行って、自分も始めたのがきっかけです。

 ――それでやってみたら面白かった、と。

 その時はソフトボールもやっていて、そっちの方が楽しかったです。今では考えられませんが、毎日たたかれて、田舎なのではだしで山を走らされたり、真冬に海で泳がされたり――、自分が行きたいと言って始めたのに、夕方の5時のサイレンを聞くと震え上がるような小学生でした。「やめたい」と両親に伝えても、「やめるのはいいけれど、自分で言いなさい」と言われて、言えないで続けていました。その監督さんには中学校、高校、大学と進んでもずっと応援していただいて、プロになってからも後援会長をしていただきました。もう、めちゃくちゃ厳しかったですが、5歳で知り合って33歳まで、本当に自分の子どものように接していただきました。

 中学校に上がる時に、野球部がある中学校に入るか、相撲部のある中学校に入るかという話になったのですが、中学校の相撲の先生たちがすごく熱心に誘ってくれたこともあって、遠方で寮に入らなければならなかったものの、相撲部がある中学に入学しました。

 ――熱心に誘われたということは、相撲の成績もよかったのですか。

 それが、1回戦負けぐらいの成績だったのです。でも、相撲をやっている子どもが少なかったし、トップの強い子は私立の強豪校に行ってしまうので、公立にはなかなか生徒が集まらないという事情もあったのではないでしょうか。

 そこで指導していただいたのが、日体大出身の先生でした。その先生は、宿題を出さなかったり、授業中にふざけたりして職員室で名前を聞いたりしたら、部活動は参加させないという方でした。「学校生活を大切にできない者は、部活動をやる必要はない」という考え方で、当時は「そっちから誘ったのに」と思って反発したりもしましたが、今思うと本当に教育者だったのだなと感じます。

 自分が出会った先生方はみんなそうでした。公立だったということもあるのかもしれませんが、試合で負けても怒られたことはなかったですし、部活動が嫌だなと思ったことは一回もありませんでした。

 大会で他の学校を見ると、試合に負けて怒られている生徒がすごくたくさんいたのです。今は少なくなったかもしれませんが、全国大会になるほどそういう学校ばっかりで、特に私立の強豪校になるほど多くて、それに対する違和感はいまだにあります。

教員になるために相撲も頑張る

 ――大学は日体大に進まれました。

 僕が中学校、高校と、相撲でお世話になった先生が2人いるのですが、どちらも日体大出身の先生で「かっこいいな」と思ったのが、教員を目指すきっかけになったと思います。その先生は相撲が強かったわけではなくて、中学生の時点で自分はもう負けませんでした。でも、一人の人間として生徒と接してくれている感じがすごくあって、人として尊敬していました。

 それで、先生方の出身校の日体大に行きたい気持ちが芽生えました。でも勉強はあまり得意ではなかったので、どうしたらいいのだろうと悩んでいた時に、先生からは「自分が今まで頑張ってきたことは何なのか」と問われたのです。中学校から寮に入って、自分で洗濯して、弁当も自分で詰めて登校して――、「それが頑張ってきたことじゃないの」と。勉強だけではなくて高校3年間、死ぬ気で相撲に取り組んでみて、大学から声が掛かるぐらいになれるように頑張ろうと思いました。

 ですから、高校時代に相撲を一生懸命頑張ったのも、同級生と一緒に全国大会に行きたいという目標もありましたが、ある意味、先生になるために頑張ったところがあります。ですので、日体大に合格した時はめちゃくちゃうれしかったですし、中学校・高校の相撲の先生の後輩になれたこともうれしかったですね。

「相撲部の先生に憧れて教員を目指した」と濵町さん=撮影:大川原通之
「相撲部の先生に憧れて教員を目指した」と濵町さん=撮影:大川原通之

【プロフィール】

濵町明太郎(はままち・めいたろう) 1993年、高知県出身。保育所の頃から相撲を始め、日本体育大学4年次(2014年度)の全国学生相撲選手権大会では副主将を務め団体戦優勝。大学卒業後の15年4月に九重部屋入門。同年5月場所にて初土俵。序ノ口優勝1回、序二段優勝1回、三段目優勝1回。生涯戦績237勝208敗47休(54場所)。24年5月場所後に日本相撲協会に引退届を提出。同年10月から東京都立農産高校保健体育科講師。

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