大相撲九重部屋の千代の海関、本名・濵町明太郎さんは2024年の引退後、同年10月から東京都立農産高校で保健体育講師を務めている。中学時代の相撲部の顧問の先生たちの、学業優先の姿勢や生徒との接し方に尊敬の念を抱き、教員を目指したという濵町さん。顧問の先生の出身校だった日本体育大学に入学し、相撲部で活躍しながら教員を目指していたが、卒業後にプロの世界へと進路を大きく変更する。インタビュー後編では、プロに進路を変えた理由や、相撲部屋で感じた人を育てることへの思い、再び教員を目指した経緯などを聞いた。(全2回)
――志望していた日体大に入学して、学生生活はどうでしたか。
大学に入ってからは相撲が中心の生活でしたが、先輩たちも教員になった方が多かったので、教員になりたい気持ちは、さらに強くなりました。大学4年生で全国大会でも団体優勝できて、知名度も少し上がってきて、1年後には社会に出なければいけない時に自分の進路をもう一度考えた時でも、「やっぱり教員だな」と強く思っていました。
――ところが、大相撲の世界に飛び込むことになります。
先輩でプロになった方には、大学時代にキャプテンだった人が多くいました。僕らの代のキャプテンも、現役で活躍している北勝富士関です。僕は副キャプテンだったので、副キャプテンだった先輩と話す機会が多かったのですが、みんな口をそろえて「プロに行っておけばよかった」と言うのです。キャプテンだった同級生がプロとして活躍している姿をテレビで見ていると、もちろん本人の頑張りがあるとはいえ、自分も副キャプテンとしてほぼ同じレベルで頑張っていたのにと、「悔しい気持ちになる」と。それで、「このまま教員になったら後悔するな」と思ったのです。
それで監督に「プロに行きたい」と伝えたのですが、やっぱり止められました。教員になる以外にも、企業からも声がかかっていて相撲も続けられるし、「成功するかどうか分からない世界に行くより、確実に安定したところに行く方が自分のためだ」と言われて、それもそうだと確かに思いました。
どっちが正しいか分からなくなっていたのですが、北勝富士さんと話した時に、「トップを取るまで相撲はやめたくない」と迷いなく言ったのですね。北勝富士さんは高校横綱になって、アマチュア横綱になってあと一つ、プロの横綱だけだと。「その景色を見るまではやめたくない、やり通す」と言ったのです。それは僕が高校時代に先生に言われた「一個のことを頑張るすごさ」だなと思ったのです。
逆に言えば、それぐらいの気持ちがある人しかプロに行ってはいけないのかもしれない。でも、ずっと相撲を続けてきたのは僕も同じですから、小学生から始めて20年間やってきたことを放り投げてはいけないなと思って、プロ行きを決めました。教員になった先輩からは「30歳までやってみて無理だったら、その時に教員の道を考えたらいい」と言われました。ただ、「教員免許の更新だけは忘れるな」とアドバイスされました。
――入門したのは九重部屋で、当時の親方は名横綱だった千代の富士さんでした。
入門の翌年に亡くなられたので、僕ともう1人が最後の弟子になります。厳しい部屋だと聞いていましたが、どうせやるなら厳しいところでと思い、入門をお願いしました。今は大卒でプロになる人も増えてきましたが、その頃はそれほど多くありませんでした。
僕らは就職だと考えている部分もあるので、中学校や高校を卒業して入門してきた子とは全然、心構えが違ったと思います。まずは関取にならないと給料がもらえないし、結婚もしたいし、いろいろやりたいことがありますから、遊んでいる暇はないなと思いました。
独特な世界なので、最初の1年ぐらいはすごく大変でした。相撲だけやっていればいいのだろうと思って入ったら、実はそうではなかった。ちゃんこを作って、先輩や親方の用事をすませて、夕方にちゃんこを作って、また先輩や親方の用事をして――という日々で、相撲にまでたどり着けないという感覚でした。
当時は大卒が、中学校卒業や高校中退で入門した人たちから良い目では見られていなかったと思います。それはもう肌で感じていました。「おれはたたき上げでやっているから、お前らには負けられねえよ」と言われたこともあります。
今は高校や大学で相撲をやってきた人たちが多くて、僕の時代には入門の規定は22歳が上限でしたが、今は25歳に引き上げられたので、社会人を経験してきた人たちも増えました。今や、幕内・十両ではアマチュア経験者が8割なのです。
大学や社会人でアマチュア相撲を経験してきた人からすると、「プロってこんなものなのだな」と思っている部分もすごく多い。アマチュアは相撲が練習できる時間が限られていますから、短期集中で効率よく練習しようとします。それに比べるとプロはただ、だらだら長い時間をかけてやっているだけに見える面がある。短期集中の方が、ずっと強くなるなと思います。
ただ、僕はもともと教員を目指していたせいか、ずっと違う目線で見ていたのです。「自分だったらこう教えたいな」とか、「やる気にさせるのは自分だったらこうするな」と思いながら稽古をしていました。
――引退を決めたのはどういう理由だったのですか。
思うような相撲が取れなくなったというのが第一です。29歳の時に大きなけがをしたのですが、年齢とともに筋肉も落ちてくるし、成長の幅も短くなり、痛いところがあるとそこをかばって、別のところを痛めて休むしかなくなり、練習もできなくなる。自分の最低ラインの力を出すために必要な練習量がこなせなくなった時に、「無理だな」と思ったのです。
周りには「もうちょっと続けてほしい」「もうちょっと見たい」と言う人たちが多かったので続けていたのですが、最後には、好きだった相撲が楽しくなくなってしまいました。そんな時に父親に「お前の相撲を楽しみにしている人たちに、今のお前の相撲を見せるのは失礼だ」と言われたのです。自分が心で思っていたことが、父親にも見えるようになってしまった、と感じて引退を決めました。
――プロとして相撲を取っている間に、先生になりたい気持ちがよみがえることはありましたか。
ずっとありました。中学校を卒業してすぐの子が入ってくるので、その子たちと接している時に、教えるというよりは、先輩としてどういうふうに導いてあげたらいいのだろう、という感覚でしょうか。
九重部屋はどちらかというと厳しい部屋だったので、みんなが厳しくするのだったら自分一人ぐらい優しくてもいいのかな、と思っていました。例えば「相撲をやめたい」という子が先輩に相談すると、みんな止めるじゃないですか。「やめたいです」「やめるなよ」、「やめたいです」「頑張れよ」といった会話がある。それがすごく嫌で、ちょっと違うのではないかな、と思っていました。
僕の周りには教員や、アマチュアで指導している人が多かったので、こういう時にどうするか聞いてみると、その子の気持ちを否定するのではなくて、まず気持ちを聞いてあげて、改めて考えるようにしていく、というような答えで、すごく勉強になりました。
中学を卒業して相撲の経験がほとんどない子に対して、何十年もプロでやってきた人たちが、できる前提で話したって、できるはずがないじゃないですか。まずは相撲が楽しいと感じてもらわなければいけないのに、最初から厳しすぎてはただきついだけです。だから、入門してきた子たちには僕がサポートするようにしていましたし、「勝ち負けだけじゃないよ」というのをずっと伝えていました。
やっぱり楽しく相撲を続けてほしいし、楽しいということが原点になってほしい。できないのが当たり前なのに、「こういう時どうしたらいいですか」「自分はこうしたいです」などと言ってはいけない、聞いてはいけない、といった雰囲気が相撲界にあったので、自分がもし誰かに教える立場になった時には、そういう雰囲気にはしたくないと思っていました。
――そうした経験は授業にも生かせますね。
まだなかなか難しいですが、保健の授業で働き方とか体づくり、健康について、自分の経験をもとに話すこともあります。大相撲という特殊な世界に10年間いて、それから教育の世界に来た人はたぶん、日本全国を探してもほとんどいないので。でも、それを授業で生かすにはまだ力が足りないですし、今はしっかり土台作りをして、誰に見られても恥ずかしくない授業ができるようになった時にこそ、その経験を伝えていきたいと思っています。
授業作りや、テストを作るのも初めての経験で、先日も期末テストの丸つけをして、生徒のノートを見たりしていたのですが、「提出物をちゃんと出す」ということは大切だな、と改めて思いました。出さなかったら0点じゃないですか。中には、全然できてないし、ノートもきれいに書いてないけれど、取りあえず出すという子もいるのですが、それだけでもすごく大切なことだなと感じました。
保健の授業は2年生までなので、この3月の授業が最後となった生徒たちには「出さないことには何も始まらない」と伝えました。僕は、迷っている時に「悔しいと思う気持ちがあるならやってみた方がいい」「後悔するのだったらやった方がいい」という選択肢をとって、それが自分の中ではよかったと思っています。人生1回なので、やってみて後悔するほうがやらないで後悔するよりいい。そういうことを伝えられる人になりたいです。まずは、7月の東京都の採用試験で合格することが目標です。
【プロフィール】
濵町明太郎(はままち・めいたろう) 1993年、高知県出身。保育所の頃から相撲を始め、日本体育大学4年次(2014年度)の全国学生相撲選手権大会では副主将を務め団体戦優勝。大学卒業後の15年4月に九重部屋入門。同年5月場所にて初土俵。序ノ口優勝1回、序二段優勝1回、三段目優勝1回。生涯戦績237勝208敗47休(54場所)。24年5月場所後に日本相撲協会に引退届を提出。同年10月から東京都立農産高校保健体育科講師。