分断の指示に惑わされるな 子どもを死なせない学校を(木村泰子)

分断の指示に惑わされるな 子どもを死なせない学校を(木村泰子)
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子どもが変われた理由

 前回のオピニオン欄で、「子どもの自殺が過去最多」という、あってはならない事態が起きていることについて伝えた。前回の時点では暫定値だったが、3月末に確定値が厚労省と警察庁から出され、2024年に自殺した小中高生が前年より16人多い529人で、統計のある1980年以降最多となった事実が明らかにされた。

 学校という居場所がありながら、子どもが死んでいっている。ここでいったん立ち止まって、全ての教職員が「この学校の子どもに、自ら死んでしまうなどというつらいことを絶対にさせない」と覚悟を決めなければならない。これを学校の最上位目的に置いて、学校に関わる全員が強く思えば、実現できるはずだ。

 私が初代校長を務めた大阪市立大空小学校には、いろいろな子どもがいた。「自分なんていない方がいい」と話す子も、友達を殴った後で「自分は迷惑をかけるだけだから学校に来ないでおこう」と言う子も当たり前のようにいた。

 そういった子はどの子も、保育所や幼稚園で何度も何度も、いやというほど怒られてきていた。「周りに迷惑をかけている」「いない方がいい」という感情を向けられながら育って、大空小へ入学したような子たちだ。それが大空小を巣立っていき、「変われたよ」と言って、なりたい大人になっている。

 どうして変われたのかといえば、「自分は自分しかいない大事な存在だ」と考えられるようになり、自分の存在を否定するのではなく、自分が発する言葉や行動を変えればいいだけだと気付いたからだ。

 そうした成長が大空小でなぜ起きたか。校長のリーダーシップや、指導力のあるエース教員のおかげか。とんでもない。そんなもので子どもを変えるなどということは絶対に不可能だ。子どもたちが変われたのは、教職員はもちろんのこと、大空小のサポーターとなった全校児童のおうちの人たちと、外に向けて開かれていた大空小を「地域の宝」と大事にし、「子どもに起きたことは地域の人間に返ってくることだ」と言って、子どもが困っていたら力になってくれた地域の大人たちの存在があったからだ。画一的な教育をして「学校の先生だけで何とかしよう」という空気をつくり出すのではなく、多様な大人たちがつながって広げた風呂敷で子どもたちを包み、学校を地域社会にしたからだ。

国の政策と現場のずれ

 学習指導要領は、10年後の社会で生きる力を育むとうたっている。その理念の下で獲得した学力を試すには、学校を地域社会にしていくしかない。

 ところが今も学校では、先生たちばかりが重荷を背負わされて疲弊している。保護者からの言葉につぶされ、一方では国などの「上」が「これもやれ」「あれもやれ」と言ってくる。その結果、「もう限界だ」と先生がどんどん辞めていく。学校教員の精神疾患についても過去最多になったという発表があり、いくつものメディアが「学校がブラックだ」「大学生が教員にならない」と報じている。このような負のスパイラルは子どもの育ちには返らない。

 しかし、この現状を何とかしようと「働き方改革をする」「校長のリーダーシップを高める」と躍起になることが、疲弊した先生の救いになるだろうか。そして、それら働き方改革や校長のリーダーシップ、「先生の指導力を上げよう」といった題目の研修が、子どもの自殺をゼロにできるだろうか。

 私が最も強く問いたいのはこの点だ。つまり、文部科学省も教育委員会も皆、子どもが自ら死んでしまう事態を何とかしなければと思っているはずだが、現状打破のために採っている方策が、最上位目的からずれているのではないかということだ。

 学校にはこれまで、国などからさまざまな政策が下りてきた。しかしそれら政策が、一番困っている子の元には届かないということはこれまで何度となくあった。国などが良かれと思ってやっていることも、結果的には子どもを切り捨ててしまうということが起きていた。その一例が、文科省から22年4月に出された通知だ。

 この通知で文科省は全国の都道府県・政令市の教育委員会などに向け、小中学校の特別支援学級に在籍する子どもについて、原則として1週間の授業の半分以上を特別支援学級で受けるよう求めた。この通知が、「障害者の権利に関する条約」に定められたインクルーシブ教育の理念に反するとして、国内外から批判の声が上がったのは教育新聞でも報じられている通りだ。

 文科省側には、インクルーシブ教育を実現させながら、今ある教育予算の中で全国共通の教育水準を維持するといった論理があるのかもしれない。しかし現実的に学校で生じるのは、「子どもは『普通の子』と『特別の子』に分かれなさい」という大人側のルールと、分断された空気だ。

 これが自殺の原因になるということも少なからず起きているだろう。しかし、文科省に文句を言えばそれで終わるというものではない。この通知は手段であり目的は「誰一人取り残さない学校をつくる」と文科省は公言している。この通知が出た根拠に「特別支援学級」を選択したのに「通常学級」に入れられて何の支援も受けられないと困っている子どもの声があることを忘れてはならない。「通常学級」を変えない限り「自殺ゼロ」の実現はない。現場は文科省の目的を実現するための手段を子どもの声から学ぶべきである。

 目の前の子どものことは、学校現場の人間にしか分からない。文科省にはもちろん、すぐ隣の学校の先生たちにも分からない。毎日見ている先生たちが、学校の中にいるいろいろな子どもたちを真ん中に置いて、多様な大人たちで包み込むことが、子どもを死なせず、全ての子どもの学習権を保障する学校をつくることにつながっていくと私は考えている。

 1人の子が死ぬ。この子のそばにいない大人がどれだけ「死んだらだめだ」と言っても、何の力もない。そして親も力になれないことがある。子どもが死んでしまうと、親は「なんでこの子は死んだんだろう」「何も知らず、何もしてあげられなかった」と自分を責めるが、子どもは親に心配をかけたくないという優しさから、親には何も言わないのだ。だから、親以外の大人がその子のそばにいて、「大丈夫だよ」と言い続けることが重要だ。

 日本社会は今、問い直しをするべき時だ。教育だけではなく福祉も大きく転換しなければならない。日本が「子どもの権利条約」を批准したのは世界で158番目と非常に遅かったが、批准したからには、子どものあらゆる権利を大人がみんなで守っていかなければならない。次回のオピニオンでは、こうした権利保障の実現に取り組む自治体について触れていきたい。

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