文科省が7月4日、学校現場での生成AIの活用に関する暫定的なガイドラインを取りまとめて都道府県・政令市教委などに通知したことは、本紙電子版ですでに報じたとおりだ。このガイドラインは「参考資料」とされており一律に禁止や義務付けをするものではないが、教育現場における利用の基本的な考え方として、「現時点では活用が有効な場面を検証しつつ、限定的な利用から始めることが適切だ」との見解を示している。
加えてこのガイドラインは、「ChatGPTでは13歳未満の利用を認めず、18歳未満が使う場合は保護者の同意が必要となる」などの生成AIの利用規約を踏まえ、小学生の利用について「慎重な対応」を求めている。小学生が自身のアカウントを作成してデジタル端末を操作し、利用することは想定していない。
ChatGPTをはじめとした生成AIを巡るこうした議論に関して、私の意見は一つだけである。それは「なぜ止めるのか?」だ。「13歳未満か、それ以上か」といった年齢による区切りも設けず、子どもはそこにあるものを自由に使って学べばいいと考えている。問題が起きたら、そこで立ち止まってやり直せばいい。それに尽きるのではないか。
教育現場でのChatGPTの利用に関して必ずと言っていいほど話題に上がるのが、「読書感想文の宿題に、ChatGPTで出てきた文章をそのまま使うのではないか」「作文指導が成り立たなくなる」といった、学習に対する悪影響への懸念だ。
こうした「懸念」を抱くとき、人はどういう視点に立っているのだろう。大人の都合で子どもの学びを見て、「評価する側が困る」「指導する側が困る」と議論しているのではないか。子どもを主語にした学びという視点で考えれば、「大人は使ってもいいが、子どもは駄目」などという理屈は、もはや通用しないだろう。
子どもの学びに弊害があるというなら、大人にとっても害を及ぼすはずだ。活用の範囲に制限を加えようというのであれば、そもそもICTなど子どもに持たせるべきではない。そうではなく、「有効に活用すれば将来役立つ」「大人は生成AIをうまく利用できる」というのであれば、使いこなせる自律した大人になれるよう、子どももまた学びの中で、活用の仕方を身に付けていくべきだ。
ChatGPTに「『みんなの学校』とは?」と問えば、いくつもの情報が得られる。こうした情報収集は小学1年生の子どもでもできることで、子どもが10人いれば検索の仕方は10通りあり、関心を持った子どもはより多くの知識を収集していくだろう。
しかしそれは全て、過去のデータや事例を基にして引き出した情報にすぎない。生成AIが未来を示すことはできないのだ。検索などで得た情報や知識を基に考え、それを自分の言葉で紡ぎ、未来に役立てるのが人間であり、子どもはそのための力を蓄えるべく日々学ぶことができる。そうした子どもの学びや力を信用しない大人が、活用に制限をかけようとしているのではないか。重要なのは、容易に得られる情報の真偽を見極め、それを基に自分の考えを構築し、未来に役立てていく力を育むことだ。そのために学校は新たな学びのスタイルを作り出していくべきであり、これまでの当たり前に固執していてはならない。
大人が規制をかければ、子どもは裏をかいていく。「夏休みの読書感想文に生成AIを使われたら困る」と利用を制限すれば、「どうにかして出し抜こう」という発想が生まれるだろう。「それなら評価の対象にしない」などというのであれば、子どもに取り組ませる意味はなく、目的を見失ったナンセンスな課題だということになる。
そもそも、読書感想文を書かせるといった、数十年前から同じことを続けているような学習活動が、子どもにとって真に必要だと言えるのだろうか。今求められているのは、自分の考えを言語化する力だ。そうした力の育成につながらず、ChatGPTを活用した作文に対して、「生成AIの言葉を自分の文章のようにして提出したものは、評価の対象にできない」と考えるのであれば、読書感想文そのものをやめるべきではないだろうか。
大人が自由に有効活用しているものを、子どもにはなぜ制限するのか。活用するかどうかを決めるのは子ども本人であり、それを適切に判断する力や、新しい技術を役立てて自ら考え行動する力が、新しい時代に必要とされている。学校がそうした力を育成する場になっているかどうかが、これからの学びで問われていくことになるだろう。