ミャンマーではいまだ軍事クーデターによる混乱に収束の兆しは見えず、そこにさらにコロナウイルスの感染爆発が起きている。筆者は同国の落ち着いた雰囲気に魅了されて何度も訪問しており、お世話になった友人が何人もいることから胸が張り裂ける思いだ。
クーデター発生から1カ月後の今年3月、私は担任していた小学5年生のクラスとミャンマーをZoomでつなぎ、現地のミャンマー人の友人に話を聞いた。激しいデモ活動が報道されていた頃だ。
「全員デモをしています。誰も働いていません。お店は全部閉まっています」
「昨日は外で15発、鉄砲の音が聞こえました」
「政府の報道はうそばかりついています」
「おそらく国軍と少数民族の軍隊との間で戦争が起きるでしょう。ですから、大きな冷蔵庫をもう1台買って、1年間は食べていけるようにしています」
「私たちが欲しいのは、自由です。自由のために戦っています」
淡々とした口調だったが、子どもたちはあっけにとられていた。「なぜこんなことをするのか」「時代が逆戻りしているようだ」と口々に感想を言っていた。
あれから、国軍の弾圧により正当な理由もなく市民が虐殺された。ミャンマーでは格安でスマートフォンが利用でき、日本以上に多くの市民がSNSを利用していたが、今では国軍によって多くのSNSが停止され、また外国に対して顔を出して意見を言うのは非常に危険な状態になってしまった。市民は、国軍がSNSを利用していたことを理由に言い掛かりをつけ、連れ去られて暴行されるのではないかと恐れているという。
ミャンマーは親日国だ。少なくともクーデター前には、日本語学校には多くの学生が通っていた。少し前のことになるが、紹介したい。
「オオエドセンノシンジュクエキカラ、マルノウチセンヘハ、ドウイッタライイデスカ」。やけに難しい文章を復唱する声が、受講生ですし詰め状態の教室に響いていた。
最大都市ヤンゴンの外国語学校の日本語コース。若者が200人ほどだろうか。教室にぎゅうぎゅう詰めになって熱心にノートをとっていた。そして教師が読み上げたテキストの例文を全員で復唱する。頭をそり上げ、けさを着た若者もいた。
ここにおじゃましたのは、ちょっとした縁だった。以前にミャンマーを訪れた際、ヤンゴン国際空港のタクシーの受付の方と親しくなった。外国の旅先では、友達が増える。私が日本で教員をしており、ミャンマーの教育にも興味を持っていたので、自分が通っている外国語学校に連れて行ってくれたのだ。
学校の前にある駄菓子屋のような店で、日本語の先生と会わせてくれた。コーヒーをいただきながら、厚かましくも(本当に!)教壇に立ちたいというと、先生は「ボランティアとしていいでしょう」と快諾してくださった。
教室は真剣な若者でいっぱいだった。女性の方が多いだろうか。私には教師の話すミャンマー語は分からなかったが、教えている日本語は明らかに難しかった。
私は教壇に立たせてもらい、自己紹介をした。すると、「日本の企業に勤めるにはどうすればいいですか?」「ミャンマーに来ている日本の会社で働くには、どうすればいいですか?」と日系企業への就職についての質問が次々に飛んできた。当然、教員である私が分かるわけがない。そこで「今日は皆さんと一緒に、日本の文化である『じゃんけん』というゲームをしたいと思います」と提案した。
ミャンマーにもじゃんけんはあるが、「虎・(軍人の)上官・銃」である。虎は上官に勝ち、上官は銃に勝ち、銃は虎に勝つ。ジェスチャー付きで、それはそれで面白いのだが、この時は日本式で楽しんでもらった。
全員に立ってもらって、負けた人には座ってもらう。日本式はシンプルなので、すぐに覚えてもらえた。じゃんけんをするたびに歓声が上がった。先ほどまで真剣なまなざしでノートをとっていた若者たちの表情がほぐれた。
たった10分ほどだったが、教室を出るときにはみんな、私にハイタッチをして見送ってくれた。喜んでもらえてうれしかったが、もしかすると授業中に立ったり、ゲームをしたりすることが新鮮だったのかもしれない。
ヤンゴンから北に600キロ、高速バスで10時間ほど行くと第2の都市マンダレーがある。同国最後の王朝の都が置かれた街だ。私はここでも日本語学校におじゃました。マンダレー外国語大学などの学生が主な受講生のようだった。こちらはヤンゴンの学校とは違って少人数。文法から丁寧に教えていた。
学生に日本語を学ぶ理由を聞いてみた。すると口々に「楽しいから」と言っていた。ヤンゴンとの違いに驚く。だが、学ぶ楽しみの対象として、ミャンマーの若者たちが日本語学習を選んでくれたのがうれしかった。
現在、ここで学んでいた受講生の中からは、日本で通訳として活躍している方々もいる。
マンダレー郊外の児童養護施設にも伺った。生後14日から17歳までの300人ほどが生活し、さらに日中には、さまざまな理由で地域の学校に通えない子ども300人ほどが通って学んでいた。中には育てられないからと捨てられた子もいれば、民族紛争や病気、事故などで親を亡くした子もいた。
僧侶たちがボランティアで運営し、驚いたことに子どもたち同士のトラブルはほとんどないとのことだった。確かに大きな声は全く聞こえず、子どもたちの笑顔と落ち着いた雰囲気が印象的だった。
英語の授業は大学生が教え、食事の配膳や皿洗いは子どもたちが当番制で行っていた。幼児の世話は小学生が、小学生は中学生が、というように年長者が年下の子の面倒を見ていた。
食費だけで1日5万円かかるという。いろいろなものが足りず、併設の保健室も薬が足りないそうだ。それでも多くの子が大学や専門学校に進学し、中には医科大学に行く子もいるという。
雰囲気が落ち着いている理由を伺うと、僧侶たちはこう話した。「小さな頃からお釈迦さまの教えを説いている」「ここに来れば、皆きょうだいであり、友だち。もし、けんかがあれば、その都度言ってきかせる」。感謝の気持ちは一番の核心だそうだ。大人たちの善意、子どもたちの素直な姿、笑顔が身に染みる施設だった。
最近も私はミャンマーのことが気になり、現地と連絡を取った。ネットを通じて今年3月に私のクラスと話をしてくれた、ミャンマー人の友人だ。現在、軍によるネット制限は行われているが、市民はバーチャル・プライベートネットワーク(VPN)を利用して、ネットの使用を続けているという。
現地では今、クーデターに加えて、新型コロナの感染爆発が混乱に拍車を掛けているそうだ。元から脆弱(ぜいじゃく)な医療体制に加えて、医療スタッフの中にはクーデターへの抗議でストライキを行っている人もおり、まさに医療崩壊の状態のようだ。
ミャンマー人の友人は「コロナの感染が広がって、酸素ボンベが足りません。しかし、国軍は酸素工場を襲い、たくさんの人が死にました。なぜ襲うかというと、市民が困っていると国軍に対して反抗する余裕がなくなるからです。国軍はコロナ患者を治療している医師も捕まえています。これも市民が困るようにするためです。だから、オンラインで診療してもらって家族で手当てしています」と窮状を語った。友人の周りでは、一緒に日本語を学んだ仲間の家族らがコロナで亡くなっているという。
しかし、そうした状況下でも、友人は自身が運営するミャンマー国内の日本語学校の授業をZoomで続けている。そして生徒である若者たちの、絶望の中で学び続ける姿勢にも頭が下がる。ミャンマーは混乱の中だが、学びの灯火(ともしび)は消えていない。