大阪市と奈良県生駒市に拠点を置くアートスクール「アトリエe.f.t.」は、美大・芸大を目指す中高生だけでなく、子どもから大人まで200人以上が通い、空き待ちも出るほど人気の教室だ。代表の吉田田(ヨシダダ)タカシさんは、2022年に不登校の子を持つ親や、子育てや教育に関心を持つさまざまな大人が集まって活動する「トーキョーコーヒー」をスタートした。活動はあっという間に全国各地に広がり、活動拠点は全国約300カ所に上る。人気の秘密はどこにあるのか、活動に込めた吉田田さんの思いを聞いた。(全3回)
ダダイズムに憧れて吉田田を名乗る
――活動の話を聞く前に、名前の由来について教えてください。
高校生の頃、芸術運動の「ダダイズム」に憧れていたんです。常識をひっくり返すようでいて、しかもユーモラスで皮肉たっぷり。ああいう反発的な運動に憧れていました。
僕は音楽活動もしているのですが、JASRAC(日本音楽著作権協会)に登録する際、本名と同じ「ヨシダタカシ」という人が大量にいたので、アルバムを出すたびに適当に名前を変えて遊んでいました。その一つに「ヨシダダ」を使って、その後は「まあいいか」という感じでいつのまにか定着しました。新聞などに載ると必ず「誤字があります」と読者から連絡があるそうです。
――このアトリエの名前「e.f.t.」の意味についても教えてください。
フランスの詩人で芸術家のジャン・コクトーが書いた『恐るべき子どもたち(Enfants Terribles)』の頭文字から取っています。高校生の頃に「恐るべき子どもたち」という響きに憧れて、「e.f.t.」というチームをつくって芸術運動みたいなことをやっていたんです。その後、大学在学中にクリエーティブスクールを立ち上げた時、正式にこの名称を使うことにしました。
高校生の頃は自分たち自身が「恐るべき子どもたち」というイメージでしたが、アトリエを作ってからはそうした子どもたちを輩出していく場所にするというイメージです。僕が高校生の頃は、ちょうどヤンキー文化の全盛期が終わった時代だったんですよね。僕は今46歳なんですけど、おいくつですか。
――54歳です。
それじゃあ、ヤンキー全盛期ですよね。学校がどこも荒れまくっていて。
――そうですね。校内暴力でどこも荒れまくっていました。
僕らはちょうどそれが終わった時代なんですよ。先生はめっちゃ怖くて、校則も厳しくて、すごく抑圧されているのに逆らう生徒はそんなにいないという時代です。そんな時代にあって、学校を自分たちのやり方で楽しめないかと思って始めたのが「e.f.t.」というチームでした。
学生運動にも憧れがあって、抑圧する学校に何かやり返したいとの思いがあり、先輩たちがやっていた暴力的なやり方ではなく、僕らなりの面白いやり方を模索していたんです。それで学園祭の時に校舎の壁面に、バスケットコート一面分ぐらいのでかい布に、「朝日が昇り、鳥たちが歌って、みんな手をつないでいるようなさわやかな絵を描きます」と申し出て、学校から許可されたんです。
でも、実際には女性がムチを振り上げているような絵を描いて、それを校舎の側面に垂らしたものですから、先生たちは腰を抜かしました。でも、まあまあよく描けているし、ヌードでもないし、学園祭にはふさわしくないけれども駄目とまでは言えないというような絵でした。それが「e.f.t.」で初めてやった活動です。それ以前はずっと、学校に行くのが嫌だと思っていたのですが、「なんか楽しめるぞ」と思いましたね。視点をちょっとずらすと楽しくなるということを初めて経験したんです。
――高校での「e.f.t.」から、現在の「アトリエe.f.t.」に、どのようにつながっていったのでしょうか。
アトリエは昭和に建てられたモダンなビルにある
高校卒業後は大阪芸術大学に進学したのですが、当時、アルバイトが働くことへの意欲をそぐように感じたんです。だいたい誰でもできることをやらされるし、何の責任もないので、働くことがつまらないような気がして…。それで、自分にできることで起業できないかと考えました。
でも、自分にできることはただ一つだけ、大学受験のために散々練習をしたデッサンでした。これだったら教えられるなと。そして、美大・芸大受験のためのデッサン予備校という形でスタートしたんです。当時は自分の大学より格上と言われる大学に、生徒を受からせることが快感でした。でも、すぐに大きな壁にぶち当たりました。
――どんな壁にぶち当たったのですか。
絵を描くことは、本当は自由なはずです。自分がどう感じるか、どう表現するかという活動のはずなのに、大学受験では結局、受かるための技術を教えるようになります。「あそこの大学は、影をもうちょっと濃くしてコントラストが強いのが好きだから」などという形で、大学受験にぶら下がってこのビジネスをやるのは何か違うなと思い始めたんです。
僕自身、高校時代は息苦しかったんですが、芸大に行ってアートと音楽とデザインに没頭し、自分らしく居られる場所を見つけることができました。僕がアートから学んだことは、「オリジナルの人生を生きていいんだ」「何でも自分でつくっていい」ということだったんです。
そのため、次第に受験生に教えていることが「なんかつまらんな」と思うようになり、通って来る10代の子たちにワークショップをやり始めました。
――どんなワークショップをしていたのですか。
今で言うフラッシュモブみたいに突然みんなが同じ動きをしだして町の人を驚かせたり、落ちている岩とうり二つに見えるものをダンボールで作って横に並べたりと、アートの種みたいなことをいろいろとやっていました。当時は自分が高校時代にやって楽しかった体験を「みんなでやろうぜ」という感じでやっていましたが、徐々にそれが体系化され、何かをつくることを通して「自分の特性を生かして自由に生きていいんだ」ということを学べるような内容になっていきました。
今で言う非認知能力のような言葉にならない部分、数値化しにくい部分を育てる教材として、アートは有効だということに気付いたんです。そうした活動をやり続ける中で、ちょっとずつ自分のやりたかったことに近づいていきました。現在の「アトリエe.f.t.」で「つくるを通して いきるを学ぶ」と掲げているのは、そうした経緯に基づいています。
――でも、通って来る生徒さんは、美大・芸大受験の実技をやるために来ていたわけですよね。
初期には「受験対策をしてください」と怒られたこともあったという
そうです。なので当時は保護者から「そういうことやらなくていいんで、受験対策をしてください」と怒られることもありました。でも、生徒たちには「絶対に合格させるから、大学入ってからもっと役に立つような能力を身に付けよう」と言っていました。合格するためだけの教室なら他にもある、僕はもっと大切なことを教えるからと伝えていたんです。
そのうち徐々に理解してくれる保護者が現れ始め、企業などからも「社員教育でやってほしい」と声が掛かるようになりました。予備校的な指導から外れた当初は生徒が集まらずに困ったこともありましたが、同じことをやっている教室がどこにもないこともあって、少しずつ生徒が増えていきました。
――今来ている生徒さんたちも、やっぱり美大・芸大受験を目指しているのですか。
そうですね。僕は大学でも授業を持っていて、いわゆる創造性を開発していくような授業をしています。単純な題材としては、例えば磁石を配って「磁石の特性を利用して何かをつくりましょう」といった授業をしています。
そう伝えると、何人かの学生は、フリーズしてしまいます。僕が磁石は「くっつくよね」「反発するよね」とか話しているうちは、うなずいて聞いているんですが、「つくり方も自分でつくるし、答えも自分でつくるんだよ」と言うと、途端にどうしていいか分からなくなる。中にはクリエーティブになれる学生もいますが、クリエーティブのスイッチを入れようにも体中どこにも見当たらない学生が少なくありません。
毎年、そういう学生にヒアリングをしていくと、一生懸命勉強してきたけれど、友達と遊んでいたずらをしたなんてことがなく、幼少期の経験値が明らかに少ないことがよく分かります。だからこそ、「アトリエe.f.t.」ではワークショップに力を入れて、美大・芸大受験対策をする傍ら、受験以外のことも教えることにしたんです。
だって、社会に出ると、どう生きるかは自由じゃないですか。どんなふうに幸せになるかは個人や家族単位で決めることで、法律の範囲内で生きていればどう生きてもいいと思うんです。
でも、今の日本は多数派の中にいないと駄目というような集団心理があります。それは学校教育がひたすら正解だけを教えてきたからだと僕は思っているんです。そういう教育を受け続けたら、誰だって全ての物事に正解があり、正しい回答をしないといけないんだと考えます。
【プロフィール】
吉田田タカシ(ヨシダダ・タカシ) 1977年、兵庫県生まれ。大阪芸術大学卒。98年に「アトリエe.f.t.」を開設。2021年に「トーキョーコーヒー」の前身に当たる「生駒の森」の改修を開始。同年、生駒駅前に駄菓子屋「チロル堂」をオープン。アート活動の傍ら、98年に結成したスカロックバンド「DOBERMAN」は、FUJI ROCK FESTIVALへの出演、ヨーロッパツアー、韓国ツアー、フェスの開催など国内外で活躍中。