【寛容な教室のつくり方(3)】思考を停止させる「力のコミュニケーション」

【寛容な教室のつくり方(3)】思考を停止させる「力のコミュニケーション」
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 前回、規範に頼った「力のコミュニケーション」は必ず反発を生むこと、仮にその反発が直接自分には向かなかったとしても、別のところで軋轢(あつれき)を生んでしまうことを述べました。

 その分かりやすい例として、私が行う全4回のいじめ予防授業のうち、「いじめの四層構造」を学ぶ2回目の授業を紹介します。この授業で使用する事例は、合唱コンクールの朝練で毎回遅刻してくる生徒がクラスメートから変なあだ名をつけられたり、無視されたりするというものです。いじめの定義は1回目の授業で学んでいるので、こうした行為が法律上の「いじめ」に該当すること自体は、生徒たちも理解できます。しかし、その結論に納得できるかどうかは全く別問題です。この授業をする日が実際の合唱コンクールの練習期間中であることも多く、全4回の中で最も「手ごわい」授業と言えるかもしれません。

 この授業で出やすい意見は「みんなで朝練をやると決めた以上はきちんと従うべき」「遅刻はすべきでない」といったものです。「だからいじめではない」とか「いじめられても仕方がない」といった結論になります。こうした意見が出ること自体は全く問題ありません。むしろ、意見を素直に出してほしくてこうした事例設定を行い、授業の雰囲気をつくっています。

 一方で興味深いのは、こうした意見を強く持つ生徒の多くは、思いつく問題解決手段のバリエーションが極めて少ない傾向にあるということです。「遅刻する人が悪い。だから遅刻をやめさせるしかない」というところで思考が止まってしまい、クラスがこうした状況に陥らないためにはどうすればよいかという、いじめの根本的な解決方法を深く考えるまでには至らないのです。

 なお、生徒たちに「もし、同じ理由で同じように自分がいじめられたらどう思いますか?」と尋ねると、多くが「自分が悪いので我慢します」と答えます。

 つまり、一部の子どもにとっては、自身やその友達の人格や尊厳よりも、「すべき」ことの方が重いのです。自分がその「すべき」にきちんと従っていることが、アイデンティティーの大きな部分を占めているのです。だからこそ、「すべき」に従わないことが、十分にいじめる理由、いじめられる理由になるのでしょう。

 規範を振りかざす「力のコミュニケーション」を、私ができる限り減らした方がよいと考える理由はここにあります。子どもの思考を止めて、コミュニケーションを深める機会、適正な自己肯定感を養う機会を奪ってしまうのです。

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