公立学校の教員の給与の在り方を定めた給特法の改正に向けた本格的な議論が、中教審で始まった。月給の4%を「教職調整額」として一律支給する代わりに残業代を支払わないと規定した同法を巡っては、学校現場が労働時間を管理する意識を弱め、教員の長時間労働を助長する要因になっているとして、廃止を求める声がある。では、労働時間の管理が徹底されると、教員の仕事はどのように変わるのか。ある公立高校の教員が「残業代」を勝ち取ったケースを取材すると、この問題の複雑さが見えてきた。
「まさか、あんなことになるとは思わなかった」
大阪府立高校で理科の教員をしていた男性(74)は、府立高校での教員生活最後の年をこう振り返った。当時の経験は今も苦い記憶として残っているという。
「あんなこと」について詳述する前に、まずは公立学校に勤める教員の残業代の扱いについて整理しておきたい。
都道府県教育委員会などに正規採用された「教諭」、産休や育休などで教諭に欠員が出た場合などに一時的に雇用する「臨時的任用教員」(常勤講師)は、給特法の適用対象となっており、労働時間に応じた時間外勤務手当・休日勤務手当(残業代)を受け取ることができない。一方、特定の教科の授業だけを担当し、学級担任や部活動指導などは基本的に受け持たない「非常勤講師」は給特法の枠組みからは外れており、他の公務員や民間企業の従業員のように、労働基準法に基づいて労働時間に応じた賃金を支払うルールだ。
今回紹介するのは、府立高校に教諭、再任用教員として長年勤めた男性が、再任用期間の終了後、大阪府東部の府立高校で非常勤講師をしていた2016~17年度に起きた出来事だ。
当時の大阪府教委は、府立高校の非常勤講師に対し、授業1コマあたり2860円を支給していた。この金額の中には授業の準備や受け持った生徒の評価などに要する時間の対価も含まれるという位置付けだった。また、実際に授業が行われる週数を少し上回る35週分の人件費を用意しており、定期テストの採点や他の教員との打ち合わせなどの時間が別途必要となった場合、この剰余分を使ってもらうというのが府教委の考え方だった。
だが、男性から見ると、こうした府教委の方針は現実に即していないものだった。非常勤講師をしていた高校は学力面で課題を抱えた生徒が多く、プリントなどの自作教材を用意したり、理科に興味を持ってもらえるような実験を考えたりする必要があると考えた。早めに出勤して教材づくりなどに取り組んだ結果、勤務時間は府教委が用意した予算枠を上回り、「サービス残業」が発生することになった。
男性は教諭時代、プレー経験のないサッカー部の顧問を長年務め、残業代が支給されない給特法の枠組みに疑問を抱いていた。「非常勤講師として残業代を請求すれば、問題提起ができるかもしれない」。そんな思いもあり、校内で自分が仕事をしたと考える時間を勤務実績簿に記録するようになった。
こうした証拠に基づき、労働基準監督署に申告したところ、男性の言い分は認められた。東大阪労基署は17年3月、授業1コマ単位ではなく労働時間に応じた対価を支払うべきだとして、16年度に発生していた未払い賃金を支払うよう府教委に勧告。府教委はこれに従い、11万4400円を支給した。「これからは働いた分だけ賃金がもらえるようになる」。男性は内心、こう期待したという。
ところが、事態は男性の思惑とは異なる展開を見せた。男性の証言と当時の資料に基づき、残業代の支払い勧告を受けた府教委と勤務校の管理職が、翌17年度にどのような対応を取ったのかを振り返ろう。
まず、年度が始まると勤務実績簿が厳しく管理されるようになり、男性は自らの判断で記録を付けられなくなった。また、授業以外の仕事を勝手にやらないよう管理職から求められたという。6月には、授業以外の時間に仕事をする場合、事前に管理職の許可を得るよう求める職務命令が文書で正式に出されている。これにより、教員として必要だと思った仕事が自由にできなくなった。
それでも管理職の許可を得た上で教材づくりなどの時間を確保していたところ、8月下旬に新たな職務命令が出された。府教委が用意した人件費の範囲内で年度内の授業を全てこなすため、「計画的に」仕事をするよう命じられたのだ。年度後半になると、自分が担当する生徒の定期テストの採点業務からも外されるように。授業準備のために早めに学校へ出向いたところ、授業が始まる直前までは校外で待機するよう求められることもあった。
男性は勤務実態を記録するため、学校が管理する勤務実績簿とは別に私的な業務日誌を付けていたが、18年1月22日の授業が最後となっている。この後に行われた学年末テストや成績判定作業には関与することができなかった。
男性はこの17年度を最後に府立高校での教員生活にピリオドを打ち、現在は広域通信制高校のサポート校の教員として、教育に携わり続けている。当時のことを振り返り、「十分な授業準備や試験前のサポートといった正規教員と同じような関わりができなかった。生徒たちには本当に申し訳ないことをした」と語った。
この問題について、当時の管理職や府教委にも認識を聞いた。
当時の校長は職務命令によって授業以外の仕事を禁じたことを認め、人件費を予算の枠内に収めるための勤務時間管理の徹底は「府教委の意向だった」と明かした。
一方、「授業準備のために早めの出勤が必要だった」とする講師側の主張については「認識が異なる」と反論。「必要な教材は他の理科教員に作らせるなどしており、非常勤の先生は授業の時間だけ来てすぐに帰れる体制を整えていた」と語った。
また、当時の経験を通じて、労基法に基づいて勤務時間管理を徹底することの難しさも感じたという。非常勤講師の中には、授業時間以外の生徒の様子を把握したいとの思いから、自らの意思で学校行事に参加する人もいた。「こうしたものについても残業代が請求される可能性があるとなれば、管理職は職務命令で参加を禁じるという話になってくる。だが、本人の意に反して『来るな』とは言いづらい面がある」と語った。
府教委は「非常勤講師の給料が税金から支払われているということもあり、校長が不必要だと考える仕事に従事している場合、管理職の勤怠管理の問題として、府教委が学校側を指導することはあり得る」との立場だ。
府教委は一連の問題を受け、非常勤講師の勤務条件を示した文書に、授業1コマあたりの準備や評価に要する時間は前後5分ずつとし、それ以外の勤務を命じることは基本的にはないと明記するようになった。任用の際には、この内容に同意してもらっているという。
一連の経緯をどう捉えればいいのか。
給特法を含めた教員の労働法制に詳しい大阪大大学院の高橋哲准教授(教育法)は「非常勤講師に授業準備などに費やした労働時間の対価がきちんと支払われていない事例は、他にもあると考えられる。労基署の勧告などにより、未払い賃金が支払われたり、しっかりと勤務時間が管理されるようになったりするのは望ましいことだ」とする一方、「必要な予算が確保できる仕組みがないままに給特法を廃止し、全ての教員の勤務時間管理が徹底された場合、現場の教員が必要だと考える教育活動が満足に行えなくなる危険性があることも示している」と指摘する。
こうした事態を避けるためには、教員の仕事の範囲を定める際に教員自身の意見が反映され、その業務をこなすために必要な人や予算が確保される仕組みが必要だというのが高橋准教授の見解だ。具体的な方法としては、教員の仕事の範囲を含めた労働条件について、労使間の協議によって決定する仕組みを提案している。米国ではこうしたシステムが採られているという。「日本の公立学校の教員は地方公務員法によって労働基本権の一部が制約されており、米国とは条件が異なるのは確かだ。ただ、現行法制下でも教育委員会と教職員組合が『協定』という形で労働条件に関する取り決めを交わすことは可能だ」と説明する。
教員の「働き方改革」を巡っては、財務省が4月28日に開催した財政制度等審議会(財務相の諮問機関)の財政制度分科会で、文科省や教委が強制的にでも教員の仕事を整理する必要性を唱えるなど、トップダウンでの業務の仕分けを求める声がある。高橋准教授はこうした動きについて、「教育課題は地域や学校ごとに異なっており、仕事の内容を一律に強制できるものではないはずだ。こうした形での働き方改革は公教育の役割を縮小させ、子どもたちがしわ寄せを受ける恐れがある」と話している。