「記録を取って」「記録は大事だから」と日頃から繰り返し先輩教員に言われ続けてきたけれど、正しく書けているかどうか分からない――。学校現場から、よくそんな声を聞く。中でも子ども同士のトラブルや教室内での気になる言動をどう書き留め、校内で共有していけばいいのか不安になるケースは少なくないはずだ。今年5月に『生徒指導の記録の取り方~個人メモから公的記録まで』(共著・学事出版)を刊行した岡山県立大学の周防美智子准教授は、「これまでの記録の取り方では、教員の丁寧な子どもとの関わりは見えてこない」と危機感を持つ。周防准教授にインタビューの第1回では、現状の記録は何がまずいのかを聞いた。(全3回)
――専門は児童精神保健ということですが、長年、学校現場と関わって研究をしてこられたのですね。
小中学校の子どもを対象に、問題行動と抑うつ状態との関連について研究してきました。「抑うつ状態」とは病名ではなく、「気分の落ち込み」や「意欲の低下」「興味が湧かない」といった症状を指します。主として精神保健分野で扱われるものなので、そうした視点を持って学校を対象に子どもの全体調査をする研究は珍しいのではないかと思います。
約1万2000件の調査結果を分析して分かったのは、ストレスが高くなったり、自己肯定感が低くなったりすると、子どもにも「抑うつ症状」が現れるということです。小学校低学年の場合は、落ち着きなく動き回る、よくしゃべる、暴力行為などの行動として現れやすいこと、そして小学校高学年から中学生になると、気持ちが落ち込む、元気がない、意欲や気力が湧かないといった大人の抑うつ状態と似た症状へと内面化されることが分かったのです。また、抑うつ状態の増加が問題行動に正の相関関係があることも分かってきました。
こうした知見を得られたのは、学校現場に入らせてくれた教育委員会、調査に協力してくれた子どもたちや先生たちがあってのことです。ですから、データを取るだけではなく、現場にフィードバックしていくのが、私のもう一つの研究テーマでもあります。そのため、先生方の子どもへの声掛けや観察、対応がより良くなるよう、一緒に支援計画を立てたり、授業の進め方を考えたりする仕事を続けています。
――なぜ生徒指導の「記録」に関する本を書かれたのでしょうか。
いじめ防止対策推進法が2013年に施行されて以来、いじめの第三者委員会や調査委員会の委員として、学校の先生方が書いた記録を読む機会が増えました。学校から提出された生徒指導や支援の記録を読むたびに、「あれ? これって実際とちょっと違うんじゃない?」と違和感を覚えることがたびたびあったのです。私は長年、学校現場で先生方を見てきましたから、「子どもに対する先生方の思いや関わりが伝わらない書き方になっている」と思いました。
どの先生も現場で対応した時点では、状況を見ながら行動していたはずです。なのに、そのときの記録が少なかったり、正確ではなかったり、時には記録自体がなかったりしました。委員会で不足している情報を得ようと先生にヒアリングをしても、記憶が薄れているためはっきりと答えることができません。
記録に基づいた説明がしっかりとできなければ、その時点での支援がなかったことになってしまいます。これでは第三者委員会での検証や開示請求があったときに耐えられません。たとえ先生が「自分はやっていました」とその場で言っても、責任逃れと言われかねないのです。そんな危機感が執筆の動機です。
それからもう一つ、2022年に改訂された「生徒指導提要」ではチーム学校、チーム支援の重要性が改めて強調されました。チームでの支援に不可欠なツールは「記録」です。学校において一定の視点で子どもを理解し、支援の方向性を共有するためにはこれまでのメモ書きでは駄目で、「客観的な可視化された記録」に変えていく必要があります。そうした問題意識から、京都教育大学大学院連合教職実践研究科の片山紀子教授との共著で、記録に関する本を書こうという話になりました。
――「客観的」という言葉には数値などのデータのようなイメージがあります。指導や支援の記録の客観性というのは、どんなことを指すのですか。
子どもの話した言葉や実際の様子、先生の対応などを事実に基づいて「あるがまま」に書くことです。それが記録の客観性を担保します。裏を返すと、教員の主観や評価が入り込んでしまう記録は主観的な記録であり、客観性が担保されていません。
記録は多くの場合、一人の先生がその子どもについて書きます。その時にその教員が「感じたまま」に書いてしまうと、主観的な記録になってしまうのです。
――主観的、客観的な書き方の違いをもう少し詳しく、具体的に解説していただけますか。
例えば私が今、ここにあるアイスコーヒーのグラスを持って飲んだとします。そのことをある先生が「周防はグラスを持ってアイスコーヒーを飲んだ」と書くのが「あるがまま」の記録、客観的な記録です。
それに対して「周防はのどが渇いていたので、アイスコーヒーを飲んだ」と書くと、ここには記録をした人の主観が入り込んでしまいます。「たぶん、のどが渇いたので飲もうとしたのだろう。自分だったらそうしているだろう」という主観です。でも、のどが渇いていたかどうかは、本人に尋ねない限り分かりません。つまり、事実ではないということです。
――主観的な記録以外にも、適切ではない記録の仕方はありますか。
「子どもがこのような状況なのは、発達に課題があるからだ」などと書くのは、主観的なだけでなく、専門外の医療診断や心理診断をしたような記録という点からも不適切です。
また、要約された記録も問題です。学校現場は忙しいので、先生方は要約して記録を書こうとします。もし、主観的な記録をした上でさらに要約が加わると、先生がその子についてどう感じたか、どう捉えたかだけが羅列されてしまうことになります。
例えば、クラスで問題行動が多く見られるAさんについて「Aはいらだって机を叩いた」「急にキレて暴言を吐いた」「自分勝手で自分の思いを通そうとする」といった具合にです。「いらだって」や「キレて」「自分勝手」というのは教員の主観ですし、言動の理由が確かめられているかどうかも書かれていません。
これら「感じたまま」の記録や要約された記録が校内で共有されると、一人の教員の主観が他の教員にも共有されることになり、その子どもへの先入観につながる恐れがあります。そうして多面的な子ども理解が進まなくなってしまうのです。
一方、事実に基づいた「あるがまま」の客観的な記録であれば、それを読んだ他の先生方が、異なる視点からの意見や考えを出せます。それらを統合して子ども一人を多面的に捉えることが、チームによる望ましい支援や指導につながるのです。