【生きづらさにまなざしを重ねる】 マイクロアグレッション

【生きづらさにまなざしを重ねる】 マイクロアグレッション
【協賛企画】
広 告

 スクールソーシャルワーカーと子どもの居場所運営という二足のわらじで、子どもの困り事の解決に取り組む鴻巣麻里香さん。自身も子ども時代にいじめを受けた経験から、「逃げ場のないつらさ」が子どもの心身の成長にどのような影響を及ぼすかが分かると話す。インタビューの第2回では、幼少期の経験を振り返る形で、活動に込めた思いを聞いた。(全3回)

出自によるいじめで、逃げ場のないつらさを経験

――鴻巣さんご自身、子ども時代にいじめを受けていたそうですね。

 今から40年ほど前は、外国にルーツのある子どもが珍しい時代でした。小学校ではいじめを受け、社会からの疎外感を早くから抱いていました。初対面で「ハーフ?」と聞かれたり、「英語がぺらぺらなんでしょ」と言われたり…。悪気はないけれども日常の言動に現れる偏見や差別、否定的な態度を「マイクロアグレッション」と言いますが、これにずっとさらされてきました。

 普通、初対面の人に「あなたは日本人?」なんて尋ねないですよね。でも、その言葉に悪意はないんです。気にはなるんだから仕方がない、向こうに悪気はないんだ…。いつの間にか、自分にそう言い聞かせる習慣が付いてしまいました。

――どこか心が安らぐ場所はあったのでしょうか。

 なかったですね。学校ではいじめられていましたし、家に帰ると同じく周囲から孤立していた母のケア役を担っていました。どこにも居場所がなく、どこにも行けなかったんです。

 というのも、小学校高学年になって引っ越した先が山間部で、登下校はバスを利用していました。そのため、放課後にどこかへ寄り道するといった行動すらできませんでした。みんな一緒にバスで帰るので、いじめっ子たちから距離を置いて下校するなんてこともできません。唯一、一人でいられたのはバス停から自宅までの街灯のない山道だけ。登下校もつらい、学校にいてもつらい、家にいてもつらいという逃げ場のない状況でした。

 紆余(うよ)曲折あってソーシャルワーカーになってから仕事で出会った人たちの居場所のなさは、私が子ども時代に経験したものと共通していました。そんなつらさを感じている人が「取りあえずいられる場所があったらいいな。だったら、つくってみようか」と思って立ち上げたのがKAKECOMIです。

 今でも外国にルーツがある人たちが、かつての私と同じ目に遭っています。無邪気な好奇心によるマイクロアグレッションに傷つき、苦しさを覚えています。だからこそ、子どもたちの尊厳が傷つけられ、権利が侵害されていることに「ノー」と子どもたちの前で示せるソーシャルワーカーでいたいですね。

「やりたいことがない」 優等生の心が折れたとき

いじめによる心の傷は、大人への不信感を長引かせると話す鴻巣さん=撮影:市川五月
いじめによる心の傷は、大人への不信感を長引かせると話す鴻巣さん=撮影:市川五月

――ソーシャルワーカーは、最初から目指していたわけではなかったのでしょうか。

 そうですね。私は「なりたいものがない人」だったんです。勉強は大好きで、本を読むのも好きでした。でも、それを生かして「何をする」という発想がなかったんです。振り返ってみると周囲に「何をしているときが一番楽しい?」「興味があることは何?」「将来、何になりたい?」などと質問してくれる人はいませんでした。

 親や学校の先生から言われたのは、「この高校に行くといいよ」「あなたの学力なら、この大学に行けるよ」などという提案ばかりでした。大学でも同じです。「自分は何をしたいか」がよく分からないまま、国立大学に進みました。大学の勉強は楽しいし、留学もできました。でも、自分が何をしたいか分からないままだったので、就職活動に乗り遅れてしまいました。

 こうした状況に陥ったのは、つらいときに助けてもらえない過去、出自を理由にいじめられてきた経験によって、自己肯定感が著しく低下し、周囲と自分への信頼感がすっぽり抜け落ちていたためだと思います。「自分がしたいことを実現できる」とか「チャレンジする」とか「うまくいかなくても誰かが助けてくれる」とか、当時の私は思えませんでした。

 小学校のときのようないじめがなくなったにもかかわらず、「どうせ誰も助けてくれない」「私の願いはかなわない」と、諦めの色眼鏡を外せないままでいました。就活に乗り遅れた私は結局、周囲に言われるがまま大学院に進学しましたが、だんだん眠れない、食べられないといった身体症状が出始め、ついには自分のしていることに全く価値を感じられなくなって休学を申し出ました。

 その後は実家に戻り、しばらくぼうっと過ごした後、カフェでアルバイトを始めました。そこには今まで自分の周りにいなかったような人たちがたくさんいて、初めて勉強以外のことで楽しさを感じられました。

 学生時代は東京で一人暮らしをしていたのに、街をぶらぶらしたり、きれいなものを見たりといった遊びはほとんどせず、常に真面目でいなければという強迫観念に駆られていたんだと思います。そんな私に、バイト先のカフェのオーナーをはじめいろいろな人たちが、私を否定することなく、新しい世界を見せてくれました。古い家具の良さだったり、絵画や音楽の良さだったり、ワインを飲む楽しさだったり、いろいろなことを知ることができました。

 私はその後、精神障害者の就労施設でボランティアを始めました。精神保健福祉士の資格を取得し、茨城県内の精神病院関連施設に勤務することになりました。

こども食堂の画一化は危うい

「たべまな」は、本やアンティークに囲まれた和カフェのような空間だ=撮影:市川五月
「たべまな」は、本やアンティークに囲まれた和カフェのような空間だ=撮影:市川五月

――今の福島県白河市に拠点を構えたのは、東日本大震災がきっかけだったそうですね。

 そうです。震災の後、被災者や避難者のメンタルケアや、市民向けに心の相談を行う「ふくしま心のケアセンター」に在籍し、その担当地域だった白河が生活と仕事の拠点になりました。その後、ケアセンターを退職してKAKECOMIを立ち上げ、スクールソーシャルワーカーとしても仕事をするようになりました。今年で9年目になります。

――KAKECOMIは今後、どうなっていきますか。

 10年の節目に、少し形を変えようと思っています。自分自身の今後の生き方を考え、「何がしたいか」を実現するために動きだしたいと考えているところです。

 コロナ前には、私が作りたい料理を作ってワインを出す「おとな食堂」をやっていたことがあり、それをまた始めようかと思っています。カレーを作りたい人がいたらカレー屋さんをし、店長をしてみたい人がいたら交代でやってもらう。そうした場に、こども食堂を組み込んでいくようなスタイルを試せたらいいなと考えています。

 今はこども食堂もだいぶ増えてきたので、子どもにご飯を出す場にこだわらず、私たちが心地良いと感じる場所をわがままにつくっていきたいですね。そもそも、私はこども食堂の規模を拡大したり、整えたりしようとは思っていません。この10年間で「第三の居場所」の多様性が、乏しくなってきているように感じるからです。

こども食堂にも多様性が残っていいと考えている=撮影:市川五月
こども食堂にも多様性が残っていいと考えている=撮影:市川五月

 こども食堂は今、子どもを見守る大人が必ずいて、ご飯がきちんと提供され、学習支援も受けられてと、画一化が進んでいます。そうして形が限定されれば、大人が考える望ましい子どもの過ごし方、大人が安心できる子どもの過ごし方を押し付けてしまう可能性があるのかなと考えています。

 もっと多様なこども食堂、子どもの居場所があっていいと思うんです。なので、規模は小さくて構わないから、今「たべまな」に来ている子どもたちが感じている心地良さを大事にしつつ、程よくミニマムな場所を大事にしたい。そんなイメージを持っています。

【プロフィール】

鴻巣麻里香(こうのす・まりか) 非営利任意団体KAKECOMI代表。精神保健福祉士、スクールソーシャルワーカー。外国にルーツがあることを理由に差別やいじめを経験。ソーシャルワーカーとして医療機関に勤務後、東日本大震災の被災者・避難者支援を経て、2015年にKAKECOMIを立ち上げ、こども食堂とシェルター、相談室を運営。近著に『中学生の質問箱 思春期のしんどさってなんだろう? あなたと考えたいあなたを苦しめる社会の問題』(平凡社)がある。

広 告
広 告