「あ~、もう一人の面倒くさい先生が来た!」と、ある子が手をつないで歩いているときに言った。彼は、本人がやりたくないと言ったらやらず、好きなようにしないと大変なことになると親から申し送りされた転入生。
彼がいう面倒くさい先生とは、「適当に文字を書いたら正しく書けるまであの手この手で対応する」「一人で準備ができるまで見守る」「あいさつが言えるまで待つ」先生だ。彼にとっては、まさに面倒な存在である。子どもの人権を大切にすることは当然理解している。個性重視、多様性を認める現在、好きにさせればよいのだろうか。
ただ、「面倒くさい先生」と言っていた本人は、その教師が自分のそばに来ることや、「はい、やるよ」の言葉を待っている様子がうかがえる。「〇〇先生は、やらんと書けるまでやらせるもんで面倒くさいの」と話す彼に、「だって、あなたはできる子だもの」と伝えると、照れ臭そうにしながら「分かってる」と答える姿がある。
学校には、自分の存在をアピールするために反抗的な態度をとる子も、あえてできないそぶりをする子もいる。教師は子どもに試されている。子どもたちの実態や家庭環境をしっかり把握し、その子のできることよりほんの少し上に目標を設定することは、とても難しいことではあるが、大切なことでもある。
多様性尊重の言葉に流されず、常に子どもを見取り、能力を最大限に伸ばす努力をする「面倒くさい先生」が存在する学校でありたい。
(鈴木立子・豊橋市立下条小学校長)