学校の授業の中で「体育」が嫌いな子どもたちは、昔から一定数存在する。失敗するところを見られるのが恥ずかしかったり、そもそも運動することが苦手だったりと理由はさまざまだが、そうした子どもたちは我慢をして授業をやり過ごし続けてきた。そもそも学校で体育の授業をする意味とは何なのか。昨年10月に『体育がきらい』(ちくまプリマ―新書)を上梓した筑波大学体育系の坂本拓弥助教に、体育嫌いが生まれる理由や教科としての「体育」が持つ意味などを聞いた。(全3回)
――昨年10月に著書『体育がきらい』(ちくまプリマ―新書)を出されました。普段、どのような研究をしているのでしょうか。
体育・スポーツ哲学が専門です。「体育哲学」は「体育ってそもそも何なのか」という話を哲学の立場から考える領域です。体育原理や体育原論と呼ばれることもあります。また、「スポーツ哲学」も「スポーツとは何か」を探求する学問です。その中には、暴力やドーピングの問題などを論じる「スポーツ倫理学」も含まれています。
「体育嫌い」については、正直なところ、今までずっと考えてきたというわけではありません。私自身はあまり「好き嫌い」に焦点化するのはよくないと思っていたんです。でも、このテーマでの執筆の話をいただいてから、改めていろいろと調べ、考える中で、世の中には体育が嫌いな人が大勢いて、しかも、皆さんその嫌な思い出を克明に記憶されていることを改めて認識しました。これは取り上げなければいけない問題だし、真面目に考える対象として意味があると再認識したことが本書のスタートでした。
――「体育嫌い」の理由は人それぞれだと思いますが、相当数の「体育嫌い」が生まれてしまう原因は、現時点でどう分析されていますか。
いろんなことをひっくるめて「体育嫌い」と呼ばれている面があるのだと思っています。「体育の先生が嫌い」とか「運動が嫌い」とか「友達との関係が嫌」とか「見られて恥ずかしい」とか、本当にいろいろあると思います。「体育着に着替えるのが嫌い」という人も結構いますし、「泥が付いたりするのが嫌」という人もいます。
それらが全部ごちゃ混ぜになって「体育嫌い」という巨大な言葉になっているわけです。ただ、例えば「漢字が嫌い」とか「小説が嫌い」といったことをひっくるめて「国語嫌い」と言うことはあまりないように感じます。その点「体育嫌い」は、他の教科と比べても特にいろいろな意味がそこに込められているように思います。
また、他の教科では自分の全身に他者の注目が集まることはそこまでありませんが、体育ではかなりの頻度と強度で他者の目にさらされます。さらに体育では、自分の身体が直接的に人と触れることもあります。そのような特徴は、体育のよいところでもあるのですが、一方で、難しい側面を含んでいるとも思っています。
――体育の教員について、何か感じていることはありますか。
体育の教員は、運動全般が得意に見えると思いますが、必ずしもそうとは限りません。私も体育の教員ですが、例えば器械運動はすごく嫌いでしたし、初めてスキーを体験した時も「もう二度とやるか!」と思いました。体育の教員にも、そういう経験が少なからずあると思います。
一般的に体育は、「得意・苦手」や「好き・嫌い」で区分されて論じられることが多いですが、本当はその「あいだ」に無限のグラデーションがあります。実際に、「球技は得意だけど水泳は苦手」といった子もいるわけです。そのように考えると、単純に「好き・嫌い」や「得意・苦手」という枠組みだけで体育を捉えることは、適切ではないと思います。
――私もどちらかというと運動が苦手で、体育は嫌な授業でした。ただ、大人になった今は、走ったり身体を動かしたりすることが嫌いじゃないですし、そういう人は意外と多いようです。やはり学校の授業でやるということに、何か一つ大きな問題があるのではないかと思うのですが。
運動やスポーツを「学校の授業でやる」ということには、確かにいろいろな意味が付加される可能性があります。当たり前ですが、やりたいことだけをやれるわけでもありません。例えば、運動を強制されることに抵抗を覚える人も少なからずいます。ただし、そこで少し注意したいことは、「好き嫌い」を完全になくすことはできないという点です。だとすると、むしろ嫌いなものとどう付き合っていくかを考えることも必要なのではないかと私は思っています。
嫌いなことに向き合うとき、その対象が漠然としていて大きいと向き合いづらいはずです。反対に、対象をできるだけ細かく分けていき、「本当に嫌いなのは何か」や「嫌いなのはなぜか」といったことを少しでも明確にできれば、今より少しだけ、その嫌いな対象を小さくすることができ、結果的に向き合いやすくなると思います。
――国語や数学は、好き嫌いがあってもやらないわけにはいきません。それと同じような意味合いで、体育も好き嫌いは別として学ぶべきだというスタンスでしょうか。
おっしゃる通りで、むしろその根拠を、体育を専門とする私たちがしっかりと示さなければならないと思っています。もちろん、「楽しさ」や「面白さ」は、あるに越したことはありません。しかし、それらばかりが注目されてしまうと、逆に「体育をなぜやるのか」という問いに答えることが難しくなってしまうように思います。
言い換えれば、「楽しさ」や「面白さ」だけが前面に出てしまうと、「好きが多いから必要」や「嫌いが多いから不要」といった形で、究極的には人気アンケートのようになってしまいかねません。
そうならないためには、ものすごく基本的なことですが、運動や健康、そして一人一人の身体が、私たち人間にとって大切なんだということを改めて伝えていく必要があります。現状の体育がそのことを十分に伝えられているかというと、必ずしもそうとは言い切れません。いろいろな課題もありますが、好きか嫌いかという基準をいったん保留して、まずは子どもたちの身体の意味を、体育にとって本当に重要な事柄として捉え直していくことが必要だと思っています。
――そうすると、「体育」という教科を学ぶべき理由というのは、どのようなものだと考えられていますか。
正直に言うと、まさにそれがよく分からないので、私自身はずっと研究を続けています。もちろん、いくつかの答え方ができると思います。例えば、現行の学習指導要領では生涯スポーツの推進を目指しているので、将来的に子どもたちが社会に出たときに、団体種目であれ個人種目であれ、何かしらの運動やスポーツをやってみようと思えるようなベースを作っておくことが必要だと言えます。
ただ、当たり前のことですが、美術が好きな人もいれば音楽が好きな人もいて、人それぞれに趣味嗜好があるわけです。スポーツも、その中の一つでしかないんですよね。「みんながスポーツをして健康に!」という思いも理解できます。しかし、個人的にはそこまでスポーツを推すのではなく、小中の9年間や高校を含めた12年間の間に、子どもたちが将来的に自分の身体に向き合っていくためのすべを、身をもって理解できることが必要だと思っています。現代社会に見られるように、大人になってからジムに行き、トレーニングに安くないお金を払わないと自分の身体の扱い方が分からないという状況は、「学校の体育はいったい何をしてきたのか」という問いを、私たちに突き付けているように思えてなりません。
それに関連して言うと、今の学校の体育は、ちょっとスポーツに偏り過ぎているように思います。一応、「体ほぐしの運動」が25年ほど前から体育の授業に入ってきて、スポーツだけではない身体との向き合い方が、ようやく重視されるようになってきました。とはいえ、単なる準備運動代わりになってしまっている現状もあるので、今後、さらにテコ入れをしていく必要があると思っています。
【プロフィール】
坂本拓弥(さかもと・たくや) 1987年、東京都生まれ。千葉大学教育学部卒業。東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科単位取得退学。博士(教育学)。明星大学教育学部助教を経て、現在は筑波大学体育系助教。専門は体育・スポーツ哲学。特に身体論と欲望論。共編著に『探究 保健体育教師の今と未来 20講』(大修館書店)、共著に『スポーツと遺伝子ドーピングを問う:技術の現在から倫理的問題まで』(晃洋書房)、『はじめて学ぶ体育・スポーツ哲学』(みらい)など。