【脱!「体育が嫌い」】 これからの時代の体育指導

【脱!「体育が嫌い」】 これからの時代の体育指導
【協賛企画】
広 告

 体育・スポーツ哲学が専門の筑波大学の坂本拓弥助教は、体育も他の教科と同様に、好き・嫌い関係なく学ぶべきだと指摘する。「体育嫌い」が意識される背景には、スポーツ偏重の現在の体育の在り方が関係しているとし、もっと自分の身体との向き合い方を学ぶことが重要だという。インタビューの最終回では、これからの体育指導がどのような方向に向かうべきかを聞いた。(全3回)

嫌いでも向き合わなければいけない

――著書『体育がきらい』の中で印象深かったのが、「あとがき」にあった運動が苦手な生徒に伴走して、いろいろと話をしながら一緒に歩いたというエピソードでした。

 ある中学校で保健体育の授業を担当していた時のエピソードです。『体育がきらい』の執筆を打診されたとき、真っ先に思い出したのがその生徒でした。その生徒は重度の肥満だったので、そもそも体育が「好き」とか「嫌い」の以前に、動くこともなかなか難しい状態でした。かといって保健体育の教員としては、「体育はやらなくていいよ」と言うわけにもいきません。そこで当時の私が実践したのが、一緒に話をしながら歩くということでした。

 正直に言うと、まったく走れない彼を前に、私は当初どうしたらいいか分かりませんでした。その生徒の他にも30人以上が同じ授業を受けており、もちろん彼らの指導もしなくてはなりませんでした。そんな中、私はその生徒といろいろな話をしながら、ひたすら歩き続けました。その生徒にとっては、楽しくなかったかもしれません。でも、歩きながら話していると息も切れてきますし、少なくとも、その生徒の身体を変えることにはなるのではないかと思ったわけです。

 『体育がきらい』では書けなかったのですが、その生徒については、印象に残っている別の出来事もありました。ある日の体育の授業で、その生徒ともう一人の別の生徒との間でけんかが起きました。私が両者の事情を一通り聞き、最後に「これからどうするのか」と聞くと、もう一人の生徒が「分かりました。もう二度とこいつとは関わりません。そうすれば二度とけんかをすることもありません」と言ったんです。私はびっくりしてしまったのですが、たまたま隣にいたベテランの養護教諭の先生が間髪入れず、「そんなこと駄目に決まってるでしょ!」と言ってくださいました。

 「嫌いだから関わらない」というのは、もしかすると、大人の人間関係だったら正解になるのかもしれません。嫌な人とは付き合わないという選択は、メンタルヘルスの面からも好ましいかもしれません。でも、小学生や中学生が同じクラスの友達と、「嫌いだからもう二度と関わらない」という発想をするのは、ものすごくまずいと思います。

 今の大学生を見ていても思うのですが、「嫌いだからやらない」とか「嫌いだから付き合わない」という判断基準は、かなり広く受け入れられているようです。しかし、本当にそのような「好きか嫌いか」という基準で、多くの物事を判断してよいのでしょうか。むしろ、子どもたちがこれから社会を生きていく中では、嫌いだけど付き合わないといけないし、嫌いだけど話さないといけない、といった状況に多く出合うのではないでしょうか。そこで重要になるのは、「関わらない」という態度ではなく、「どのように向き合い、関わるか」という点だと思っています。このことは、本当の意味で多様性を尊重するためにも不可欠ではないでしょうか。

中学校での体育指導のエピソードを語る坂本助教=撮影:市川五月
中学校での体育指導のエピソードを語る坂本助教=撮影:市川五月

体育・スポーツ哲学の研究者に

――そもそも体育・スポーツ哲学を研究するようになったのは、どういう経緯があったのでしょうか。

 高校を卒業後、千葉大学教育学部の保健体育科に入学して、体育教師を目指していました。高校の先生になって部活動の顧問をやりたかったという、よくあるパターンだったんです。

 大学2年の終盤に、3年次から所属する研究室を決めるための面談がありました。ある先生から「将来、何をやりたいのか?」と聞かれたので、「バスケットボール部の顧問をやりたい」と答えると、「それも大事だけど、君は一体何の先生になるんだ?」とさらに問われました。私はもちろん「体育」と答えたわけですが、そこで、「では、体育とは何をする教科なのか?」という問いが返ってきたわけです。この問いが、当時の私に強いショックを与えました。

 なぜかそれがショックだったかというと、それまで大学や教育学部の中で、いつもジャージやスウェットなどを着て「自分たちは体育の人間なんだ」と誇りやプライドみたいなものを持って生活していたにもかかわらず、いざ「体育とは何をする教科なのか?」と問われたときに、「健康のため」とか「スポーツの楽しさを伝えるため」とか、はっきり言って誰にでも言えるようなことしか出てこなかったからです。「体育が専門だ」と胸を張っていたわりには、体育について何も分かっていない自分に気付いたわけです。私が体育・スポーツ哲学を学び、「体育とは一体何か」という問いの答えを探し続けているスタートには、そのような出来事がありました。

「体育で何を教えるのか」と問われて答えられず、研究の道に進んだと話す=撮影:市川五月
「体育で何を教えるのか」と問われて答えられず、研究の道に進んだと話す=撮影:市川五月

これからの体育授業の方向性

――これからの体育や体育教師の在り方について、どうあるべきだと思っていますか。

 これは巨大な問いなので、答えるのがとても難しいです。例えば、よく知られているように、多くの小学校の先生は体育の授業だけをやっているわけではありません。私も小学校の教員になった卒業生の授業を参観し、一緒に授業案を考えることがありますが、授業後にいろいろと対話をしようと思っても、「すみません、この後すぐに給食なのでまた後日…」となることもしばしばです。

 このような状況を踏まえると、小学校での体育授業に、あまり多くのことを求め過ぎてはいけない気がしています。むしろ、その内容や方向性をよりシンプルかつ明確に示すことが必要だと思います。個人的には、小学校の体育は、子どもたちが自らの身体を動かして遊ぶ中で、本人たちが気付かぬうちに身体で多くのことを学んでいる授業が理想だと思います。現在でも、低学年では「運動遊び」が実施されていますが、その方向性をさらに深めていくのがよいと思います。特に、子どもたちには、自分たちで面白さや楽しさを見つける力を身に付けさせることが、情報も娯楽も飽和している現代社会では何よりも重要だと思っています。

 一方で、中学校や高校における体育授業は、スポーツの楽しさや運動技術を伝えるだけでなく、個々人の身体の在り方により注目する方向に進むべきだと思っています。ただし、それはこれまでの学習内容を大きく変えなくとも可能だと思います。

 例えばバスケットボールを教材とした場合、単にドリブルやシュートをすれば、経験者の方が技能が高いのは当然です。でも、ドリブルのリズムをいろいろと変えてみたり、できるだけ全身の力を抜いてみたりすると、必ずしも経験者がうまくできるわけではなくなってきます。むしろ、全然経験したことのない人の方が、うまく力を抜くことができたりもします。これはほんの一例ですが、既存のスポーツ種目を教材とする場合でも、身体の力の入れ方や動かし方、さらにはその感じ方などに着目すれば、かなり豊かなバリエーションをつくることができます。そして、それは子どもたちの身体を豊かに育んでいくことにつながっています。

 現在さまざまな議論のある水泳なども、ただ四泳法を覚えて速く泳ぐだけではなく、水中で普段やらないような動きを試みてみるなど、工夫できることはいくらでもあります。スポーツの技術や技能だけでなく、むしろその枠組みを少しずつずらすことによって、自らの身体を動かす面白さを体育の授業に取り入れることができれば、体育という教科の可能性がぐんと広がるのではないかと思います。特に、これからのデジタル社会においては、一人一人の人間の身体は、これまで以上に重要な意味を持ってくるはずです。その意味でも、体育はスポーツ活動に収れんされることなく、子どもたちの身体を豊かに育むものでなければならないと思っています。

「小学校は運動遊びを、中・高では個人の身体を尊重した指導を」と語る=撮影:市川五月

  

【プロフィール】

坂本拓弥(さかもと・たくや) 1987年、東京都生まれ。千葉大学教育学部卒業。東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科単位取得退学。博士(教育学)。明星大学教育学部助教を経て、現在は筑波大学体育系助教。専門は体育・スポーツ哲学。特に身体論と欲望論。共編著に『探究 保健体育教師の今と未来 20講』(大修館書店)、共著に『スポーツと遺伝子ドーピングを問う:技術の現在から倫理的問題まで』(晃洋書房)、『はじめて学ぶ体育・スポーツ哲学』(みらい)など。

広 告
広 告