初めての研究授業は、大失敗でした。新任の年の5月のことでした。小学2年生の社会科(当時は、生活科という教科がまだありませんでした)の授業で、魚屋さんが魚をたくさん売る工夫について話し合うというものでした。
いつもは元気に手を挙げていた子どもたちが、全く手を挙げずにシーンとしていて、私一人が必死にしゃべりまくっているような授業でした。
当然、授業後の研究協議では、厳しいご指導があり、涙をこらえるのに必死でした。
最後に校長室に入り、校長先生からのご指導を受けました。校長先生は、授業の内容には一切触れず、「教室に置いてあった鉢植えの花の中に枯れかけているものがあったね。あの花をずっと奇麗に咲かせておけるようになると、きっと授業も成功するようになるよ。あなたの教室は、奇麗に整頓されているから、きっと素晴らしい先生になっていけるよ」とおっしゃいました。その優しい言葉で、我慢していた涙がぽろぽろこぼれてしまったことを今でもよく覚えています。
でも、当時の私は、「花を枯らさないこと」と、「授業が上手になること」とどういう関係があるのかがさっぱり分かりませんでした。
研究校でしたので、それからも研究授業をやる機会が何度もありました。先輩の先生方の授業を参観させてもらったり、アドバイスをもらったりして指導案を作り、かなりの時間をかけて準備をしました。自分としては万全の態勢で臨むのですが、あまり進歩が感じられず、やるたびに落ち込みました。
それでも、毎日かわいい子どもたちと過ごすことが楽しくて「先生になってよかったな」と思っていました。
子どもたちとのつながりが深まるにつれて、日頃の授業は、自分が思ったとおりに進められるようになりました。研究授業はというと、相変わらずうまくできませんでしたが、少しずつ褒めていただけるようになりました。
2学期の終わりごろ、校長先生がふらりと教室に入ってみえて、「最近、花がいつも奇麗に咲いているようになってきたね。いつもきちんと見ているんだね。子どもたちも落ち着いてきたでしょう」とおっしゃいました。
そのとき、私はハッとしました。初めての研究授業の後に、校長先生が伝えようとしたことが、このときやっと分かりました。研究授業のときに、子どもたちがいつもと同じように意見を言ったり元気に活動したりしないのは、自分自身が日頃の授業と全然違うからなのだと気付きました。
花は、毎日状態を見て、水やりをしたり肥料を与えたり、枯れたところを切ったりすれば上手に育ちます。咲いてほしいときだけ水をやっても駄目です。
授業も一緒です。「いつも同じように」一生懸命教材研究して取り組めば、良い授業ができるようになります。
そして、学級経営も一緒です。担任の先生が「いつも同じように」笑顔でいれば、子どもたちはみな安心して過ごせるようになり、温かな学級になります。
「いつも同じように」がんばっていると「先生になってよかった」と思える瞬間がたくさんあります。
私は、あと数年で定年を迎えますが、そんなふうに思える瞬間がまだまだこれからもたくさんあるといいなと思います。
(柴田泰子・一宮市立黒田小学校長)